手当たり次第に読んだ若干の書物。しかしそれだけでも彼にとっては、光明と快活と元気との国、その上に大胆な若い心に適するゴール的高慢さを多少そなえた国、それを想像するには足りるのであった。彼はフランスをそういう国だと信じていた。なぜなら、そう信ずる必要があったし、そうであれかしと心から願っていたから。

 彼は出発の決心をした。――しかし母のために出発することができなかった。
 ルイザはしだいに老いていった。彼女は息子を鐘愛《しょうあい》していた。息子は彼女の喜びのすべてだった。そして彼女は、彼がこの世で最も愛してるもののすべてだった。けれども彼らはたがいに苦しめ合っていた。彼女はクリストフをほとんど理解せず、また理解しようともつとめなかった。ただ彼を愛しようとばかりした。彼女は狭い臆病《おくびょう》なぼんやりした精神を有し、また感心すべき心を、なんとなく人の心を動かし圧迫するような、愛し愛されたいという強い欲求を有していた。彼女は息子《むすこ》を非常な学者だと思って尊敬していたが、彼の天分を窒息させるようなことばかりしていた。彼がこの小さな町に自分のそばに生涯《しょうがい》とどまってるだろうと思っていた。もう幾年もいっしょに暮らしてきたし、ずっと同じような状態でゆくだろうと思わざるを得なかった。かくして彼女は幸福だった。どうして彼もまた幸福でないことがあろうぞ。彼にこの町の気楽な中流階級の娘を娶《めあ》わせ、日曜日には彼が教会堂のオルガンを弾《ひ》くのを聞き、そしていつまでも自分のそばにとどまってること、それが彼女の夢想の全範囲だった。彼女は息子をいつも十一、二歳くらいに見ていた。それ以上になってほしくなかった。そして彼女はこの狭い天地に息づまってる不幸な一個の男子を、別に悪い心ではなしに苦しめていた。
 とは言え、大望のなんたるかを理解し得ないで、家庭の愛情とささやかな義務の遂行とに、人生の全幸福を置いている母親の、かかる無意識的な哲理のうちには、多くの真――一つの精神的偉大さ――が存在していた。それは愛することを欲する魂であり、愛することのみを欲する魂であった。愛を捨てるよりもむしろ、生活、理性、論理、全世界、すべてを捨てる方が好ましかったのだ! そしてこの愛は、無際限で懇願的で要求深いものだった。それはすべてを与えるものであり、またすべてを得んと欲するものだった
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