なかった。それから少し奥へ行って控室で、彼は文書局の役人に出会った。いつも彼に親愛の様子を見せながら、盛んにおしゃべりをする男だった。ところが、その男が話を避けて急いで通り過ぎたので、彼はびっくりさせられた。が彼はそれらのことにこだわらないで、なお進んでいって案内を求めた。
 彼ははいっていった。午餐《ごさん》が終わったところだった。殿下は客間にいた。暖炉を背にして、客たちと話しながら煙草《たばこ》をふかしていた。客のうちにクリストフは、自分の[#「自分の」に傍点]姫を認めた。彼女も煙草をふかしていた。そして肱掛椅子《ひじかけいす》にしどけなく身をよせかけて、まわりを取り巻いてる将校らに声高く話していた。会合はにぎやかだった。皆はすこぶる愉快そうだった。そしてクリストフははいって行きながら、大公爵の幅広い笑い声を聞いた。しかしクリストフの姿が彼の眼にとまると、その笑い声はぴたりとやんだ。彼は一つ唸《うな》り声をたてて、じかにクリストフめがけて大声に浴びせかけた。
「ああ来たな。どの顔でやって来たのか。お前はこのうえ私《わし》を馬鹿にするつもりなのか。お前は実に悪者だ。」
 クリストフは真正面に受けたその砲弾に茫然《ぼうぜん》として、ちょっとの間一言も発することができなかった。彼は自分の遅参のことばかり考えていた。遅参したとてかかる乱暴な目に会う訳はなかった。彼はつぶやいた。
「殿下、私は何かいたしたのでございますか。」
 殿下は耳を貸さなかった。勢い激しく言い進んだ。
「黙れ。私《わし》は悪者から侮辱されはしないぞ。」
 クリストフは蒼《あお》くなりながら、喉《のど》がつまって言葉が出ないのをもがいた。彼は一生懸命になって叫んだ。
「殿下は不当です……不当であります、私が何をしたかおっしゃらずに、私を侮辱されるのは。」
 大公爵は私書官の方をふり返った。私書官はポケットから一枚の新聞を取り出して、それを大公爵に差し出した。大公爵はひどく激昂《げっこう》していた。例の怒りっぽい性質からと言うだけでは不十分だった。芳醇な酒気も加わっていた。彼はクリストフの前に来てつっ立ち、闘牛士が外套《がいとう》を打ち振るように、広げた皺くちゃの新聞をクリストフの顔の前に激しく振り動かしながら、叫んだ。
「汚らわしい行ないだ。……こんなものに顔をつっ込むのがお前にはよく似合ってる。」

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