肥満しきった快活|豪奢《ごうしゃ》な婦人らが、代わる代わるイソルデやカルメンに扮装《ふんそう》して現われた。アンフォルタスがフィガロを演じた。しかしクリストフがおのずから最もよく感じたことは、歌の醜いことであって、ことに、旋律の美が本質的要素たる古典的作品における、歌の醜いことであった。もはやドイツではだれも、十八世紀末の完全な音楽を歌うことができなかった。歌おうとつとめる者がなかった。ゲーテの文体のようにイタリー的な光明に浴してるごとく思われる、グルックやモーツァルトの明確素粋な様式――すでに変化し始め、ウェーバーとともに震え揺めき始めた、その様式――クロシアト[#「クロシアト」に傍点]の作者の鈍重な漫画によって滑稽《こっけい》化された、その様式――それはワグナーの勝利によって滅ぼされてしまっていた。鋭い叫びを上げるワルプルギスの荒々しい羽音は、ギリシャの空を覆《おお》うていた。オディンの密雲は光を消滅さしていた。今はもはやだれも、音楽を歌おうと思う者がなかった。人は詩を歌っていた。細部の閑却や醜いものや誤れる音さえも、大目に見のがされていた、ただ作品全体のみが、思想のみが、重要であるという口実のもとに……。
「思想! それについて一言してみよう。なるほど諸君は思想を理解するような顔つきをしている。……しかしながら、諸君が思想を解しようと解すまいと、どうか、その思想が選んだ形式を尊敬してもらいたい。何よりもまず、音楽は音楽であってほしい、音楽のままであってほしい。」
 その上、ドイツの芸術家らが表現と深い思想とにたいして払ったと自称する、この大なる注意は、クリストフの意見によれば、おかしな冗談にすぎなかった。表現だと? 思想だと? そうだ、彼らはそれを至る所に――至る所一様に配置していた。毛織の舞踏靴《ぶとうぐつ》の中にも、ミケランジェロの彫刻の中にと同じく――多くも少なくもなく同等に――思想を見出すのであった。だれの作をも、いかなる作をも、同じ力で演奏していた。要するに、多数の人々の考えでは、音楽の本質は――とクリストフは断言した――音量であり音楽的騒音であった。ドイツでかくも強く感ぜられてる歌唱の快楽は、声音的体操の愉悦にすぎなかった。空気で胸をふくらまし、それを元気に力強く長く調子をつけて吹き出すことが、その主眼であった。――そしてクリストフは、賛辞の代わり
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