かった。二人はどこへともなくただまっすぐに歩き出した。
「そしてあなたは、どこへいらっしゃるの?」と彼女は言った。
「僕もわからないんです。」
「ちょうどいいわ。いっしょに行きましょう。」
 彼女は少しはだけてるチョッキから梅の実を取出して、それをかじりだした。
「毒になりますよ。」と彼は言った。
「いいえちっとも。いつも食べてるのよ。」
 チョッキの隙間《すきま》から彼は彼女の肌襦袢《はだじゅばん》を見ていた。
「もうすっかりあたたかになっちゃったわ。」と彼女は言った。
「どれ!」
 彼女は笑いながら彼に一つ差出した。彼はそれを食べた。彼女は子供のように梅の実をすすりながら、横目で彼をながめていた。彼にはこの出来事がしまいにどうなるかよくわからなかった。が彼女には少なくとも多少の見当はついていた。彼女は待っていた。
「おーい!」と林の中で叫ぶ声がした。
「おーい!」と彼女は答えた。「……あらいたわ、」とクリストフに言った、「まあよかった。」
 彼女は反対に、かえって悪いと考えていた。しかし女にとっては、言葉というものは考えどおりのことを言うために与えられたものではない。……ありがたいことだ! もしそうでなかったら、地上にはもはや道徳が存し得なくなるだろう。
 人声は近づいてきた。連れの者たちが道に出て来るところだった。彼女は一飛びに路傍の溝《みぞ》を踊り越し、その土手によじ上り、木立の後ろに隠れた。彼はびっくりして彼女のすることをながめていた。彼女は来いと強く相図をした。彼はあとについていった。彼女は林の中の方にはいり込んでいった。
「おーい!」と彼女は連れの者たちがかなり遠くなった時にふたたび言った。「……少し捜さしてやらなきゃいけないわ。」と彼女はクリストフに言ってきかした。
 連れの者たちは道の上に立止って、どこから声が響いてくるのか耳を傾けた。彼らは彼女の声に答えて、つづいて林の中にはいってきた。しかし彼女は待っていなかった。右に出たり左に出たりして面白がった。彼らは喉《のど》を涸《か》らして呼んでいた。彼女はそのままにさしておいて、それから反対の方へ行って呼んだ。ついに彼らは疲れてしまった。彼女を出て来させる最上の策は、少しも捜してやらないことにあるのだと信じて、こう叫んだ。
「さようなら!」
 そして歌いながら去っていった。
 彼女は彼らにほったらかされたのを怒った。彼らを厄介払いしようとしてはいたが、しかし彼らにそうやすやすと思い切られたことが許せなかった。クリストフは馬鹿《ばか》げた顔つきをしていた。見知らぬ娘といっしょにやった隠れん坊の遊びが、たいして面白くもなかった。そして二人きりなのに乗じようとも考えてはいなかった。彼女も別にそうしようとは考えていなかった。腹だちまぎれにクリストフのことなんか忘れていた。
「まあ、ずいぶんひどい。」と彼女は手を打ちながら言った。「こんなに置いてきぼりにするなんて!」
「でも、」とクリストフは言った、「自分で望んだことでしょう。」
「いいえちっとも!」
「自分で逃げたでしょう。」
「私が逃げたって、それは私一人のことで、あの人たちの知ったことじゃないわ。あの人たちは私を捜してくれなけりゃならないはずだわ。もしも私が道にでも迷ったんだったら……。」
 もしも……もしも事情が反対だったら、どんなことになっていたろうかと、彼女ははや心細がっていた。
「そう、少し責めてやらなくっちゃ!」と彼女は言った。
 彼女は大跨《おおまた》に引返した。
 道の上に出ると、彼女はクリストフのことを思いだして、また彼をながめた。――しかしもう時遅れだった。彼女は笑いだした。先刻彼女のうちにいた小さな悪魔は、もういなくなっていた。彼女はほかのがも一匹やって来るのを待ちながら、無関心な眼でクリストフをながめていた。それにまた、彼女は腹がすいていた。胃袋の加減で、夕飯時なのを思い出していた。飲食店で連れの者たちといっしょになろうと急いでいた。彼女はクリストフの腕をとらえ、力いっぱいにもたれかかり、しきりに吐息をつき、疲れ果てたと言った。それでもやはり、狂人のように叫んだり笑ったり駆けたりしながら、クリストフを引張って坂道を降りていった。
 二人は話しだした。彼女は彼がどういう者であるか知った。しかし彼女は彼の名前を知っていなかった。そして彼の音楽家たる肩書にたいして敬意を払わないらしかった。彼の方でも彼女のことを知った。カイゼル街(町の最もりっぱな通り)のある化粧品商の店員で、名前はアーデルハイト――友だち仲間ではアーダ、であった。その散歩の仲間は、同じ商店に働いてる朋輩《ほうばい》の一人と、二人のりっぱな青年だった。青年の一人はヴァイレル銀行員で、も一人はある大きな流行品商の事務員だった。彼らは日曜を利用したのであって、ライン河の美景が見られるプロヘット飲食店で晩餐《ばんさん》をし、それから船で帰るつもりにしていた。
 二人が飲食店に着いた時、一同はもうそこにすわり込んでいた。アーダは一同を責めたてないではおかなかった。卑劣にも置きざりにしたことを彼らに不平言い、そしてこの人に助けてもらったのだと言ってクリストフを紹介した。彼らはアーダの苦情はいっこう構いつけなかった。しかし彼らはクリストフのことを知っていた。銀行員は評判を耳にしていたし、事務員は二、三の楽曲を聞いたことがあった――(彼はすぐに得意然とその一節《ひとふし》を口ずさんだ。)そして彼にたいする彼らの尊敬の様子は、アーダに感銘を与えた。そのうえ、も一人の若い女ミルハ――(実際はヨハンナという名前だったが)――栗《くり》色髪の女で、始終眼をまたたき、額が骨たち、前髪を引きつめ、その支那の女みたいな顔は、多少渋めがちではあったが、しかし利口そうでちょっとかわいく、山羊《やぎ》みたいな面影があり、脂気《あぶらけ》の多い金色の皮膚をしていた――それが急に宮廷音楽員[#「宮廷音楽員」に傍点]をちやほやしだしたので、アーダはなお感銘を受けた。一同は晩餐御同席の栄を得たいと彼に願った。
 彼はかつてそういう供応に臨んだことがなかった。各人がきそって彼を尊敬した。二人の女が、仲よく彼を奪い合った。二人とも彼の気を迎えた――ミルハは、大仰な様子と狡猾《こうかつ》な眼つきをして、食卓の下で彼に膝頭《ひざがしら》をつきつけながら――アーダは、美しい瞳《ひとみ》や美しい口や、すべてその美しい身体のあらゆる誘惑の種を、厚かましく働かせながら。そしてやや露骨すぎるそういう嬌態《きょうたい》は、クリストフを当惑させ悩ました。それらの大胆な二人の娘は、ふだん家で彼をとり巻いてる無愛想な人々の顔つきとは、まったく別種の観があった。彼はミルハに興味を覚えた。彼女の方がアーダよりも怜悧《れいり》だと推察した。しかしそのひどく阿諛《あゆ》的なやり方と曖昧《あいまい》な微笑とには、好悪《こうお》の入り交った気持を起こさせられた。彼女はアーダから発する喜悦の光輝にたいしては、匹敵し得なかった。そして彼女もよくそれを知っていた。勝負は自分の方が負けだと見てとると、彼女は強《し》いて頑張《がんば》らずに、ただ微笑《ほほえ》みつづけ、気長に好機を待つことにした。アーダはもう自分のものだと見てとると、そのうえ優勢に乗ずることをしなかった。彼女の振舞は、朋輩を不愉快がらせようとするのが重《おも》であった。彼女はそれに成功した。満足だった。しかしその戯れに、彼女はみずから引っかかった。クリストフの眼の中に、彼女は自分が煽《あお》りたててやった情熱を感じた。そしてその情熱は、彼女のうちにも燃えてきた。彼女は口をつぐんだ。下等な揶揄《やゆ》をやめた。二人は黙って顔を見かわした。口の上には接吻《せっぷん》の味が残っていた。時々にわかに元気を出して、他の人達の冗談に騒々しく口を出した。それからまた黙り込んでは、そっと顔を見合った。しまいには人に気づかれるのを恐れるかのように、もう見かわしもしなかった。自分のうちにくぐまり込んで、情欲をかきいだいていた。
 食事が終ると、一同は出かけることにした。乗船場まで行くには、林をつき切って二キロメートル歩かなければならなかった。アーダはまっ先に立上った。クリストフはそのあとにつづいた。二人は他の人々の仕度ができるのを待ちながら、表の石段の上にたたずんだ――飲食店の門前にともされたただ一つの軒燈の光が、ぽつりと差してる浅い霧の中に、無言のまま相並んで……。
 アーダはクリストフの手を取り、家の横を、庭の暗闇《くらやみ》の方へ引張っていった。茂るに任せた葡萄蔓《ぶどうづる》が一面にたれさがってるバルコニーの下に、二人は身を潜めた。あたりは重い闇だった。二人は相手の顔も見えなかった。風が樅《もみ》の梢《こずえ》を揺すっていた。彼は自分の指にからんでるアーダの生あたたかい指を感じ、彼女が胸にさしている一輪のヘリオトロープの香《かお》りを感じた。
 にわかに彼女は彼を引寄せた。クリストフの口は、霧にぬれたアーダの髪に触れ、彼女の眼や睫毛《まつげ》や小鼻や脂肪太りの頬骨《ほおぼね》に接吻し、口の角に接吻し、唇《くちびる》を捜し求めて、そこにじっと吸いついた。
 他の者たちも出て来ていた。彼らは呼んでいた。
「アーダさん!……」
 二人はじっとしていた。たがいに抱きしめながら、息を凝らしていた。
 ミルハの声が聞えた。
「先に行ったのよ。」
 仲間の者の足音は、闇の中を遠ざかっていった。二人はたがいになお強く抱きしめて、熱烈な囁《ささや》きも唇《くちびる》から漏れる余地がなかった。
 村の大時計が遠くで鳴った。二人は抱擁から身を離した。乗船場へ大急ぎで駆けつけなければならなかった。二人は無言のまま、腕と手とを組み合せ、たがいに歩調を合せながら出かけた――彼女の気性どおりの素早いてきぱきした小足で。街道は寂しかった。平野に人影もなかった。十歩と先は見えなかった。二人は好ましい闇夜の中を、晴やかな安心しきった心地で歩いていった。道の小石につまずきもしなかった。遅れていたので近道をとった。小道は葡萄《ぶどう》畑の間をしばらく降りたあとに、また上り坂になり、丘の中腹を長くうねっていた。霧の中に河の音が聞え、近づいて来る船の推進輪の高い響きが聞えてきた。二人は道を捨てて畑の中を駆けだした。ついにライン河の岸に着いた。しかし乗船場まではまだかなりあった。それでも二人の晴やかな気持は変らなかった。アーダは夕の疲労をも忘れていた。二人はそのまま、月の光のように仄《ほの》白く浮出してる河に沿うて、ますます湿っぽくますますこまやかに漂っている靄《もや》の中を、ひっそりしてる草の上を、夜通しでも歩けられそうな気がしていた。船の汽笛が鳴って、その眼に見えない怪物は重々しく遠ざかっていった。二人は笑いながら言った。
「次のに乗りましょう。」
 河の渚《なぎさ》には、静かな余波が二人の足下に砕けていた。
 乗船場に行くと、こう言われた。
「しまいの船が出たばかりです。」
 クリストフは胸にどきっとした。アーダの手はいっそう強く彼の腕を握りしめた。
「いいわ!」と彼女は言った、「明日《あした》になったら出るでしょう。」
 数歩向うに、河岸《かし》の高壇《テラース》にある柱に、角燈がさがっていて、霧の暈《かさ》の中にぼーっと光っていた。その少し先に、二、三の明るいガラス窓が見えて、一軒の小さな宿屋があった。
 二人は狭い庭にはいった。歩くと砂が音をたてた。手探りで階段が見つかった。中にはいると、燈火が消され始めていた。アーダはクリストフの腕にすがりながら、室を一つ求めた。二人が通された室は、庭に面していた。クリストフは窓からのぞき出した。見ると、河《かわ》は燐光《りんこう》のように浮出しており、角燈が眼のように光っていて、そのガラスに大きな翼の蚊がぶっつかっていた。扉《とびら》はしめられた。アーダは寝台のそばに立って、微笑《ほほえ》んでいた。彼は彼女の方を見られなかった。彼女も彼を見てはい
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