る丘の上の一地点を見出していた。それがいつも散歩の目的地であった。そこから彼は、屈折して流れてる水を見送り、柳の茂みの下で死の影がザビーネの顔をかすめるのを見たことのある、あの場所まで見渡した。そこから彼は、二人が一つの扉に――永遠の扉に隔てられ、あれほど近くしかも遠く相並んで夜を明したことのある、あの室の二つの窓を見分けた。そこから彼は、墓地の上へ翔《かけ》っていった。彼はまだ墓地へはいろうと決心することができないでいた。彼は幼い時からその腐爛《ふらん》の畑地に嫌悪《けんお》を感じていて、愛する人々の面影をそこに結びつけることが嫌だった。しかし、高くから遠くから見ると、小さな死の畑地には少しも陰惨な気がなかった。それは静かだった、太陽の光に眠っていた。……眠り!……彼女は眠るのが好きだった! 今その土地では、何物も彼女の眠りを防げないだろう。鶏の声が、平野を横切って答え合っていた。農家からは、水車の音や、家禽《かきん》の鳴声や、子供らの※[#「口+喜」、第3水準1−15−18]戯《きぎ》の声が響いていた。彼はザビーネの小さな娘を見つけ、その走るのを見、その笑声を聞き分けた。一度彼は、農家の門口で、壁をとり巻いてる凹路《くぼみち》の影で、彼女を待ち受けた。そして彼女が通るのをとらえ、激しく抱きしめた。娘は恐《こわ》がって泣き出した。彼女はもうほとんど彼を忘れていた。彼は尋ねた。
「ここにいるのがいいの?」
「ええ、面白いわ……。」
「帰りたくはない?」
「いやよ!」
彼は放してやった。子供のそういう無関心さが、彼には切なかった。憐《あわ》れなザビーネよ!……でもその子供は、彼女であった、彼女の小部分であった……ごくわずかな小部分! 子供は母親に似ていなかった。彼女の中でしばらく過して来たのではあったが、その神秘な滞在からは、故人のごくかすかな香《かお》りをようやく得てきてるのみだった。声の抑揚、唇《くちびる》のちょっとしたゆがめ方、頭の傾《かし》げ方、などばかりだった。その他の全身は、まったく他人であった。そしてザビーネの存在に交渉のあるこの存在にたいして、クリストフはみずから認めはしなかったが、ある嫌悪《けんお》を感じていた。
クリストフがザビーネの面影を見出したのは、自分自身のうちにだけだった。その面影は至る所へ彼について来た。けれども彼が真に彼女といっしょにいると感ずるのは、一人きりの時だった。とくに、彼女の思い出に満ちたその土地のまん中の、人目の遠い、丘の上の、その隠れ場所にいる時くらい、彼女をすぐそばに感ずることはなかった。彼は数里の道を歩いてやって来、あたかもある密会へおもむくかのように胸をどきつかせながらそこへ駆け上った。それは実際一つの密会だった。そこへ着くと、彼は地面に――彼女[#「彼女」に傍点]の身体が横たわってるその同じ地面に――身を横たえた。彼は眼をつぶった。彼女が彼のうちに沁《し》み込んできた。彼は彼女の顔だちを見なかった、声を聞かなかった。がその必要はなかった。彼女は彼のうちにはいり込み、彼女は彼をとらえ、彼は彼女を自分のものにした。そういう熱烈な幻覚状態のうちにあっては、彼は彼女といっしょにいるということ以外には、もう何事も意識しなかった。
その状態は長くはつづかなかった。――実を言えば、彼がまったく真実だったのはただ一回だけだった。翌日からは、早くも意志が加わった。そしてそれ以来、クリストフはその状態を復活させようといたずらにつとめた。その時になって彼は初めて、ザビーネのはっきりした姿を心に描き出そうと考えた。それまでは、そんなことは思いもしなかったのである。彼は閃光《せんこう》的にそれを描き出すことができ、それにすっかり光被された。しかしそれも、長い期待と暗黒とをもってして初めて得られるのであった。
「憐《あわ》れなザビーネよ!」と彼は考えた、「彼らは皆お前を忘れている。お前を愛し、永久にお前を心にとどめているのは、私だけだ、おう私の貴い宝よ! 私はお前をもっている、お前をとらえている。決してお前をのがすまい!……」
彼はそういうふうに言っていた。なぜならすでに彼女は彼からのがれかかっていたから。あたかも水が指の間から漏るように、彼女は彼の考えから逃げ出しかかっていた。彼はいつも忠実に密会にやって来た。彼は彼女のことを考えようとして、眼をつぶった。しかし往々にして彼は、三十分の後に、一時間の後に、時には二時間の後に、自分が何にも考えていなかったことに気づいた。低地の物音、水門に水の奔騰する音、丘の上に草を食《は》んでる二匹の山羊《やぎ》の鈴の音、彼が寝ころがってるすぐそばの細い小さな木立を過ぎる風の音、そういうものが、海綿のように粗《あら》い柔軟な彼の考えを浸していた。彼は自分の考えに憤った。その考えは彼の望みに従おうとつとめ、故人の面影を固定させようとつとめた。しかし飽き疲れうっとりしてまた力を失い、安堵《あんど》の溜息《ためいき》をつきながら、種々の感覚の怠惰な波動にふたたび身を任すのであった。
彼は自分の遅鈍な気分を振いたたした。ザビーネを求めて田舎《いなか》を歩き回った。その笑顔が宿ったことのある鏡の中に彼女を求めた。その手が水に浸ったことのある川縁に彼女を求めた。しかし鏡も水も、彼自身の反映をしかもたらさなかった。歩行の刺激、新鮮な空気、脈打つ強健な血潮、それらは彼のうちに音楽を呼び覚《さま》した。彼は自分を欺こうとした。
「ああザビーネ!……」と彼は嘆いた。
彼はそれらの歌を彼女にささげた。自分の愛と苦しみとを、頭のうちに蘇《よみがえ》らせようと企てた。……しかしいかにしても甲斐《かい》がなかった。愛と苦しみとはよく蘇った。しかし憐《あわ》れなザビーネはそれにかかわりをもっていなかった。愛と苦しみとは未来の方をながめていて、過去の方をながめてはいなかった。クリストフはおのれの青春にたいしてはなんらの手向いもできなかった。活気は新たな激しさをもって彼のうちに湧《わ》き上ってきた。彼の悲痛、愛惜、清浄な燃えたつ愛、抑圧された欲望は、彼の熱を高進さしていった。喪の悲しみにもかかわらず、彼の心臓は快い激しい律動で鼓動していた。いきり立った歌が酔い狂った音律で踊っていた。すべてが生命を祝頌《しゅくしょう》し、悲しみさえも祝いの性質を帯びていた。クリストフはきわめて率直だったから、みずから幻を描きつづけることができなかった。そして彼はおのれを蔑《さげす》んだ。しかし生命は彼に打ち勝った。死に満ちた魂と生命に満ちた身体とを持って、彼は悲しみながら、復活の力に身を任せ、狂妄《きょうもう》な生の喜びに身を任した。強者にあっては、苦悶《くもん》も、憐憫《れんびん》も、絶望も、回復できない亡失の痛切な負傷《いたで》も、死のあらゆる苦痛も、猛烈な拍車で彼らの脇腹《わきばら》をこすりながら、この生の喜びを刺激し煽動《せんどう》するばかりである。
かつまたクリストフは、ザビーネの影が閉じ込められてる近づきがたい侵しがたい奥殿を、自分の魂の底の深みにもっているということを、よく知っていた。生命の急流もこの奥殿を流し去ることはできないだろう。人は皆おのおの、おのが心の奥底に、愛した人たちの小さな墓場のごときものをもっている。彼らは何物にも覚《さま》されずに、幾年月かをそこに眠る。しかし他日その墓窟《はかあな》の開ける日が――人の知るごとく――めぐって来る。死者はその墓を出でて、母の胎内に眠ってる子供のように、彼らの思い出が息《やす》らっている胸を持つ愛人へ、愛する者へ、色|褪《あ》せた唇《くちびる》で頬笑《ほほえ》みかける。
[#改ページ]
三 アーダ
雨がちな夏のあとに、秋が輝いていた。果樹園の中には、果実が枝の上に群れをなしていた。赤い林檎《りんご》が、象牙珠《ぞうげだま》のように光っていた。ある樹木は早くも、晩秋の燦爛《さんらん》たる衣をまとっていた。火の色、果実の色、熟した瓜《うり》や、オレンジや、シトロンや、美味な料理や、焼肉などの、種々の色彩《いろどり》。鹿子色《かのこいろ》の光が、林の間の至る所にひらめいていた。そして牧場からは、透き通ったさふらん[#「さふらん」に傍点]の小さな薔薇《ばら》色の炎が立ちのぼっていた。
彼は丘を降りていた。日曜の午後だった。彼は傾斜に引かれてほとんど駆けながら、大胯《おおまた》に歩を運んでいた。散歩の初めから頭につきまとってた律動をもってる一句を、彼は歌っていた。そして真赤《まっか》な色をし、胸をはだけ、狂人のように腕を振り、眼をきょろつかせながら、やって行くと、道の曲り角で、金髪の大きな娘に、ぱったり出会った。娘は壁の上に乗って、大きな枝を力任せに引張りながら、紫色の小さな梅の実を、うまそうに食っていた。彼らは二人とも同じようにびっくりした。彼女はどきまぎして、口いっぱいほおばりながら彼をながめた。それから笑い出した。彼も同じく放笑《ふきだ》した。彼女は見るも快い姿だった、光の粉を散らしたような、縮れた金髪で縁取られた丸顔、赤いふっくらとした頬《ほお》、青い大きな眼、横柄にそりくり返ってるやや太い鼻、つき出た強い糸切歯をそなえたまっ白な歯並が見えてる、ごく赤い小さな口、貪食《どんしょく》的な頤《あご》、それから、丈夫な骨組みの体格のよい、大きな脂《あぶら》ぎった豊饒《ほうじょう》な身体。彼は彼女に叫んだ。
「御|馳走《ちそう》さま!」
そして歩きつづけようとした。しかし彼女は呼びかけた。
「もし、もし、少し親切にしてくださらないこと? 助けておろしてちょうだいな。降りられなくなったから……。」
彼はもどってきた。どうして上ったかと尋ねた。
「手足で……上るのはいつもやさしいものよ……。」
「うまそうな果物《くだもの》が頭の上にぶらさがってる時には、なおさらでしょう。」
「ええ……でも食べてしまうと、がっかりするわ。もうどこから降りていいかわからなくなってしまうわ。」
彼はそこにとまってる彼女をながめた。そして言った。
「そうやってるとよく似合いますよ。そこにじっとしていらっしゃい。また明日《あした》見に来ます。さよなら!」
しかし彼は彼女の下にたたずんで、動かなかった。
彼女は恐《こわ》がってるふうをした。そしてかわいい顔つきで、置きざりにしないようにと願った。二人は笑いながら、そのまま顔を見合っていた。彼女はつかまってる枝を彼にさし示しながら言った。
「あげましょうか。」
所有権にたいするクリストフの尊重の念は、オットーとともに彷徨《ほうこう》していたころよりも、少しも発達していなかった。彼は躊躇《ちゅうちょ》なく承諾した。彼女は彼に梅の実を投げつけながら面白がった。
彼が食べてしまうと、彼女は言った。
「さあこれで!……」
彼はなお待たして意地悪くうれしがった。彼女は壁の上でじれったがっていた。ついに彼は言った。
「さあ!」
そして彼は腕を差出した。
しかし飛び降りようとする時になって彼女は考え直した。
「待ってちょうだい! 先に食べ物を取込んでおかなくちゃならないわ。」
彼女は手の届くかぎりのりっぱな梅の実を摘み取って、ふくらんだチョッキにいっぱいつめた。
「用心してくださいよ。つぶしちゃいけないわよ。」
彼はつぶしてやりたいほどだった。
彼女は壁の上に身をかがめ、彼の腕に飛び込んだ。彼は頑丈《がんじょう》ではあったが、その重みをささえかねて、彼女とともに後ろざまに倒れかけた。二人は同じくらいな身長だった。顔が触れ合った。梅の汁《しる》にぬれた甘い唇《くちびる》に、彼は接吻《せっぷん》した。彼女も同じく無遠慮に接吻を返した。
「どこへ行くんです?」と彼は尋ねた。
「わからないわ。」
「一人で散歩してるんですか。」
「いいえ。友だちといっしょなの。でも見失ってしまったのよ。……おーい!」と彼女はいきなり精いっぱいに呼び声をたてた。
何の答えもなかった。
彼女は別にそれを気にもかけな
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