のであった。しかも彼はその幸福の価《あたい》をほんとうには知っていなかった。わずかな瞬間をも皆味わいつくすことをしないで、うかうか時を過ごしてしまった。そして今や……。今となってはもう遅すぎた。……取り返しがつかない。取り返しがつかないのだ!
彼は家にもどった。家の者が厭《いや》に思えて仕方がなかった。彼らの顔付、彼らの身振、彼らのくだらない会話が、我慢できなかった。それらは前日と変わりなく、以前と変わりなく、彼女がいたころと少しの変わりもなかった。彼らはいつもの生活をつづけていて、かくも大きな不幸が近くに起こったことを知らないがようだった。また町じゅうの者も一人として何にも気づいていなかった。人々は笑いながら、騒々《そうぞう》しく、忙しそうに、仕事に赴《おもむ》いていた。蟋蟀《こおろぎ》は歌っており、空は輝いていた。彼はすべての者を憎んだ。世の中の利己的なのに圧倒される気がした。しかし彼は、彼一人で、世の中全体よりもいっそう利己的だった。彼にとっては、もはや何物も価値をもたなかった。彼はもはや好意をもたなかった。彼はもはやだれをも愛しなかった。
彼はいたましい日々を過ごした。自働
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