事をしてゆくようにと、ケリッヒ夫人に言われた時、彼の恐縮は幸福に変わった。彼の食席は母と娘との間に設けられた。ピアノよりも食卓の腕前の方がずっとまずいと、一同から判断された。この方面の彼の教養はひどく閑却されていた。食卓では、飲食が肝心なことで、作法なんかは重大なことではないと、信じてる傾きがあった。それできれい好きなミンナは、むっとしたしかめ顔で彼を眺めていた。
 食事の後には彼はすぐ辞し去ることと、皆は予期していた。しかし彼は二人の後について、小さな客間にいり、いっしょにすわり込んで、帰ることは頭に浮べてもいなかった。ミンナは欠伸《あくび》をかみつぶして、母の方に合図をした。彼はそれに気づかなかった。幸福に酔ってしまって、皆も自分と同じ心地だと――なぜなら、ミンナは彼を眺めながら、やはりいつもの癖で流し目を使っていたから――考えていたし、また、一度すわり込むともう、どういうふうに立上がって暇《いとま》を告げていいものかわからなかった。もしケリッヒ夫人が、遠慮のないしかもやさしいとりなしで、彼を帰らしてやらなかったら、彼は夜通しそこに留っていたかもしれなかった。
 彼は帰ってゆきなが
前へ 次へ
全221ページ中139ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング