たその日に庭へまたもどっていって、悩ましい思いに息もつけないほどだった。彼はやって来る途中、出発してしまった恋人の多少の面影を、また庭に見出せるだろうと思っていた。実際来てみると、多少どころではなかった。彼女の面影は芝生の上いたるところに漂っていた。径《みち》の曲り角《かど》ごとに、彼女の姿が今にも眼の前に出て来そうだった。出て来ないことはよく承知していたが、しかしみずから苦しんでその反対を信じようとした。迷宮の林の中の小径《こみち》、藤《ふじ》のからまった高壇《テラース》、阿亭《あずまや》の中の腰掛など、恋しい思い出の跡を求めてはみずから苦しんだ。彼は執念深くくり返した。「一週間前は……三日前は……昨日は、そうだった。昨日彼女はここにいた。……今朝ほども……。」彼はそういう考えでみずから心を痛め、ついには息がせつなく死ぬほどになって、考えやめなければならなかった。――彼の悲しみには、多くの麗わしい時を利用もせず無駄に過ごしたという、自己|憤懣《ふんまん》の念が交じっていた。幾多の瞬間、幾多の時間、彼女に会い彼女の香りを吸い彼女の存在でおのれを養うという限りない幸福を、彼は楽しんできたのであった。しかも彼はその幸福の価《あたい》をほんとうには知っていなかった。わずかな瞬間をも皆味わいつくすことをしないで、うかうか時を過ごしてしまった。そして今や……。今となってはもう遅すぎた。……取り返しがつかない。取り返しがつかないのだ!
彼は家にもどった。家の者が厭《いや》に思えて仕方がなかった。彼らの顔付、彼らの身振、彼らのくだらない会話が、我慢できなかった。それらは前日と変わりなく、以前と変わりなく、彼女がいたころと少しの変わりもなかった。彼らはいつもの生活をつづけていて、かくも大きな不幸が近くに起こったことを知らないがようだった。また町じゅうの者も一人として何にも気づいていなかった。人々は笑いながら、騒々《そうぞう》しく、忙しそうに、仕事に赴《おもむ》いていた。蟋蟀《こおろぎ》は歌っており、空は輝いていた。彼はすべての者を憎んだ。世の中の利己的なのに圧倒される気がした。しかし彼は、彼一人で、世の中全体よりもいっそう利己的だった。彼にとっては、もはや何物も価値をもたなかった。彼はもはや好意をもたなかった。彼はもはやだれをも愛しなかった。
彼はいたましい日々を過ごした。自働人形のようなふうで仕事にとりかかった。しかしもう生きてゆく元気がなかった。
ある晩、彼が黙々としてうちしおれながら、家の者といっしょに食卓についている時に、郵便配達夫が戸をたたいて、彼に一封の手紙を渡した。彼はその手跡をも見ない前に、心にそれと思い当たった。四組の眼が、厚かましい好奇心をもって彼を見つめながら、いつもの退屈さから免れるような気晴らしの種をひたすら期待して、彼がその手紙を読むのを待っていた。彼は手紙を皿《さら》の横に置き、なんのことだかよくわかってるというような平気な顔をして、わざと開封もしなかった。しかし弟どもはじれだして、それを信ぜず、なおじろじろ見ていた。それで彼は食事が済むまで苦しめられた。食事が済んでから彼はようやく、自由に室の中へ閉じこもることができた。胸が高く動悸《どうき》していたので、手紙を開きながら危くそれを引裂こうとした。これからどういうことを読むかびくびくしていた。しかし初めの数語に眼を通すや否や、喜びの情が身にしみ渡った。
それはきわめて愛情のこもった文句だった。ミンナが内密に書いてよこしたものであった。「懐《なつか》しいクリスさま」と彼を呼んでいた。たいそう泣いたこと、毎晩あの星を眺めてること、フランクフルトに来ていること、大きな都会でりっぱな店があるけれども、何にも気が向かないこと、なぜなら彼のことしか考えていないからということ、などがいろいろ書いてあった。彼女にいつまでも忠実であって、彼女の不在中はだれにも会わずに、ただ彼女のことばかりを考えるようにすると、彼が先に誓ったことについて、念が押してあった。留守中たえず勉強して、名高い人になり、自分をもまた有名にしてほしいと、願ってあった。終りに、出発の朝別れを告げ合ったあの小客間を、覚えているかどうかと、尋ねてあった。いつか朝、そこへまた行ってくれと、頼んであった。自分の心はまだそこにあること、別れを告げたあの時と同じようにしているということ、などが確言してあった。「永久にあなたの私、永久に!」と終りを結んであった。そして二伸の添え書きがあって、みっともないフェルト帽をよして、麦稈《むぎから》帽を買うようにと、勧めてあった。――「ここでは、りっぱな人たちは皆それをかぶっていますのよ――広い青のリボンのついた荒い麦稈帽ですわ。」
クリストフは三、四度くり返し手紙を読んで、
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