》の家へ、ちょっと旅をしなければならなかった。
別れる前の最後の一週間には、彼らは最初のころのような親しみをまた見出した。わずかな短気な振舞を除けば、ミンナはこれまでになくやさしかった。出発の前日、彼らは長い間庭を散歩した。彼女はクリストフを阿亭《あずまや》の奥に連れ込んで、一房の髪の毛を入れて置いた香袋《こうぶくろ》を、彼の首にかけてやった。彼らは永遠の誓いをまたくり返し、毎日手紙を書こうと約束した。空の星を一つ選んで、毎晩二人とも同じ時刻にそれを見ようと誓った。
悲しい日が来た。夜中に彼は幾度となく、「明日彼女はどこにいるだろう?」と考えたのであったが、今はこう考えた、「今日だ。今朝はまだ彼女はここにいるが、今晩は……。」彼は八時にもならない前から彼女の家へ行った。彼女は起きていなかった。彼は庭を歩き回ろうとした。がそれもできないで、またもどってきた。廊下は旅行カバンや荷物包みでいっぱいだった。彼はある室の片隅にすわって、扉の音や床板のきしる音を窺《うかが》い、頭の上の二階でする足音の主を聞き分けていた。ケリッヒ夫人が通りかかって、軽い微笑を浮かべ、立止まりもしないで、ひやかし気味にお早うと言った。ついにミンナが出て来た。蒼《あお》ざめた顔をして、眼をはらしていた。昨夜は、彼と同じに眠れなかったのである。彼女は忙しそうに召使らに用を言いつけていた。老婢フリーダに口をききつづけながら、クリストフに手を差出した。もう出発の用意ができていた。ケリッヒ夫人もまたやって来た。彼女らはいっしょに、帽子のボール箱について相談し合った。ミンナはクリストフになんらの注意も払っていないらしかった。クリストフは忘れられて悲しそうに、ピアノのそばにじっとしていた。ミンナは母とともに出て行った。それからまたはいって来た。入口でなお、ケリッヒ夫人に何やら叫んだ。彼女は扉を閉めた。二人きりになった。彼女は彼のところへ走り寄り、彼の手をとり、雨戸をしめきった隣りの小客間へ引き込んだ。そして彼女は、にわかにクリストフの顔へ自分の顔を近寄せ、力いっぱいに彼を激しく抱擁した。彼女は泣きながら尋ねた。
「約束してちょうだい、約束してちょうだい、いつまでも私を愛してくださるの?」
二人は低くすすり泣いた。人に聞かれないように、痙攣《けいれん》的な努力をした。足音が近づいて来るので、たがいに離れた。ミンナは眼を拭《ふ》きながら、召使らにたいして高慢ちきな様子にかえった。しかしその声は震えていた。
彼はうまく、彼女の落したハンケチを盗み取った。よごれた、皺《しわ》くちゃの、涙にぬれた、小さなハンケチだった。
彼は二人の女友だちと同じ馬車に乗って、停車場までついていった。二人の子供は、たがいに向き合ってすわりながら、涙にむせかえるのを恐れて、ろくに顔も見合わしえなかった。彼らの手は、たがいにそっと探り合って、痛いほどひしと握りしめた。ケリッヒ夫人はずるいお人よしの様子で二人の素振りを見守っていた、そして何にも気づかないふりをしていた。
ついにその時刻となった。クリストフは列車の入口近くに立っていたが、列車が動き出すと、それと並んで走り出し、前方に眼もくれず、駅員らをつきとばし、ミンナと眼を見合していたが、ついに列車から追い抜かれてしまった。それでもやはり走りつづけて、何にも見えなくなるまでは止まらなかった。見えなくなると、息を切らして立止まった。顧みると、プラットフォームにたたずんで他人の間に交じっていた。彼は家にもどった。幸いに家の者は出かけていた。その朝じゅう、彼は泣いた。
彼は初めて、別れていることの恐ろしい苦しみを知った。恋するあらゆる心にとってはたえがたい苦痛である。世の中は空《むな》しく、生活は空しく、すべてが空しい。もはや呼吸もできない。死ぬほどの悩みである。ことに、恋人の身にまつわった具体的な事物がなお周囲に残存している時、周囲の事物がたえず恋人の姿を描き出させる時、いっしょに暮した親しい背景の中に一人残っている時、その同じ場所に消え去った幸福を蘇《よみがえ》らせようとあせる時、それはあたかも、足下に深淵《しんえん》が開けたようなものである。身をかがめて覗《のぞ》き込み、眩暈《めまい》を感じ、まさに落ち込まんとし、そして実際落ち込んでしまう。まのあたり死を見るような心地である。そしてまさしく死を見てるのである。恋人の不在は、死の仮面の一つにすぎない。自分の心の最も大事な部分が消え失《う》せるのを、生きながら見るのである。生命は消えてゆく。真暗《まっくら》な穴である。虚無である。
クリストフはなつかしい場所をいちいち見に行って、なおさら苦しんだ。ケリッヒ夫人は彼に庭の鍵《かぎ》を渡して、留守中にもそこを散歩できるようにしてやった。彼は別れ
前へ
次へ
全56ページ中47ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング