まんなかが小高くなっていた。二人はその坂を上っていった。湿った地面に足が滑《すべ》った。雨に濡れた木の枝が二人の頭の上で揺れた。頂上に着きかけると、彼女は立止まって息をついた。
「待ってちょうだい……待ってちょうだい……。」と彼女は息切れを鎮《しず》めようとしながら低く言った。
 彼は彼女を眺めた。彼女は他の方を向いていた。半ば口を開いて息をはずませながら、微笑《ほほえ》んでいた。その手はクリストフの手の中にひきつっていた。彼らは握りしめた掌《てのひら》とうち震う指とに、血が脈打つのを感じた。あたりはひっそりとしていた。木々の金緑の若芽が、日の光に顫《ふる》えていた。小さな雫《しずく》が、銀の音色をして木の葉から滴《したた》っていた。そして空には、燕《つばめ》の鋭い声が過ぎていった。
 彼女は彼の方へふり向いた。一|閃《せん》の光だった。彼女は彼の首に飛びつき、彼は彼女の腕の中に身を投じた。
「ミンナ、ミンナ、恋しい……!」
「あなたを愛しててよ、クリストフ、愛しててよ!」
 彼らは濡れた木の腰掛にすわった。恋しさに、甘く深いやたらな恋しさに、しみ通っていた。他のことはすべて消えてしまった。もはや利己心もなく、見栄《みえ》もなく、下心もなかった。魂のあらゆる曇りは、その愛の息吹《いぶ》きに吹き払われてしまった。「愛する、愛する、」――笑みを含み涙に濡れた彼らの眼がそう言っていた。この冷淡な婀娜《あだ》な少女、この傲慢《ごうまん》な少年、彼らはたがいに身をささげ苦しみ、たがいのために死にたいという、欲求に駆られていた。彼らはもはや自分がわからなかった。もはや平素の自分自身ではなかった。すべてが変わっていた。彼らの心も顔立も眼も、痛切な温情と愛情とに輝いていた。純潔の、無我の、絶対的献身の、瞬間であって、もはや生涯にふたたび来ることのない瞬間であった。
 夢中のささやきの後、永久にたがいに相手のものであるという熱烈な誓いの後、とりとめもない歓喜の言葉とくちづけの後、彼らはもう遅くなってるのに気づいた。そして手をとり合って駆けもどりながら、狭い小径《こみち》につまずき倒れるのも恐れず、木にぶっつかるのもかまわず、何にも感ぜず、ただ喜びの情に眼眩《めくら》み心酔っていた。
 彼女と別れてから、彼は家に帰らなかった。帰っても眠れなかったろう。彼は町の外に出て、野を横切って歩いた。夜中を当《あて》もなく歩き回った。空気はさわやかで、野は暗く寂しかった。梟《ふくろう》が寒そうに鳴いていた。彼は夢遊病者のように歩いていった。葡萄《ぶどう》畑の中にある丘に上った。町の小さな灯《ひ》が平野の中に震えていて、星が暗い空に震えていた。彼は路傍の土壁に腰掛けた。にわかに涙がほとばしった。なぜだかみずからわからなかった。彼はあまりにも幸福だった。その過度の喜びは、悲しみと嬉《うれ》しさとでできていた。その中に彼は、自分の幸福にたいする感謝を、仕合わせでない人々にたいする憐れみを、事物の無常さから来るもの悲しい甘い感情を、生きることの酣酔《かんすい》を、交えていた。彼は楽しく涙を流した。涙のうちに眠っていった。眼を覚《さま》すと、ほのかな曙《あけぼの》になっていた。白い霧が河の上にたなびき、町を包んでいた。そこにはミンナが、幸福の笑みに心を輝かしながら、疲れに負けて眠っていた。

 朝のうちから彼らは首尾よく庭で会うことができて、たがいに愛してるとまた言い交わした。しかしもうそれは、前日のような聖い無我の心地ではなかった。彼女は多少恋人らしい芝居をしていた。彼の方は、彼女よりも誠実ではあったが、やはりある役割をつとめていた。彼らは将来の生活を話し合った。彼は自分の貧困やつまらぬ身分を嘆いた。破女は鷹揚《おうよう》なふりをして、みずからその鷹揚さを楽しんだ。金銭には無頓着《むとんじゃく》だと自分で考えていた。そして実際無頓着だった。金に不自由をしたことがないので、金銭というものをほんとうによくは知っていなかったのである。彼は大芸術家になると誓った。彼女はそれをあたかも小説のように面白い美しいことだと思った。彼女は真の恋人のように振舞うのを義務だと信じた。詩を読んで感傷的になった。彼もその気分に感染した。彼は自分の服装《みなり》に心を配りだした。滑稽《こっけい》だった。口のきき方にも注意しだした。気障《きざ》だった。ケリッヒ夫人は笑いながら彼を見守って、どうしてそんな馬鹿げたふりをするようになったか怪しんでいた。
 しかし二人には、えもいえぬ詩的な瞬間があった。やや蒼《あお》ざめた日々のさなかに、霧を通して日の光がさすように、その瞬間が突然輝き出すのであった。それはある眼付や身振りや言葉の瞬間で、なんの意味もないものではあるが、二人を幸福のうちに包み込むのだっ
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