そらく他人の方がおもだったろうが――全部の献身を求むる専制的なその欲求に、獣的なほの暗い欲望の発作が交っていた。彼はその発作に眩惑《げんわく》したが、それがなんであるかをよく了解していなかった。ミンナの方は、とくに好奇心に富んでいて、物語《ローマンス》の主人公となるのが嬉しく、その物語《ローマンス》から、自尊心と感傷性とのありとあらゆる快楽を引出そうとしていた。自分の感じてることについて、心から自分を欺《あざむ》いていた。かくて彼らの恋愛の大部分は、まったく書物から来たものであった。彼らは書物で読んだ小説を思い出して、実際にもってもしない感情をたがいに想像し合っていた。
 けれども、それらの小さな虚偽や、それらの小さな利己心などが、恋愛の聖《きよ》い光輝の前に消え失《う》せる時期は、来かかっていた。ある日、ある時、永遠なる数瞬間……。しかもきわめて不意に!……

 ある夕方、彼らは二人きりで話をしていた。客間の中は暗くなりかかっていた。二人の会話は真面目《まじめ》な色合を帯びていた。無窮だの生だの死だのについて話していた。彼らの小さな熱情をはめこむには、あまりに大きすぎる額縁《がくぶち》だった。ミンナは自分の孤独を嘆いた。それにたいするクリストフの答えはおのずから、彼女は自分で言ってるほど孤独ではないということだった。
「いいえ、」と彼女は小さな頭を振りながら言った、「みんな口先ばかりだわ。だれでも各自《めいめい》自分のためにばかり生きていて、人をかまってくれる者はいないし、人を愛してくれる者はいないことよ。」
 ちょっと沈黙がつづいた。
「では私は?」とクリストフは突然、感情のあまり蒼《あお》くなって言った。
 一徹な娘はいきなり飛び上がって、彼の手をとった。
 扉が開いた。二人は飛びのいた。ケリッヒ夫人がはいって来た。クリストフは書物に顔を伏せて、逆さのまま読み耽った。ミンナは編物にかがみ込んで、針で指をつっ突いてばかりいた。
 その晩じゅう、彼らはもう二人きりにならなかった。二人きりになるのを恐れていた。ケリッヒ夫人は立上がって、隣りの室に何か捜しに行こうとした。ミンナは平素あまり人の気を迎える性質ではなかったが、その時は彼女の代わりにそれを取りに駆けて行った。クリストフはその不在に乗じて、彼女へは挨拶《あいさつ》もせずに帰って行った。
 翌日、彼らはまた会った。途切れた話の続きをやりたくてたまらなかった。しかしそれはうまくゆかなかった。とはいえ事情は好都合だった。ケリッヒ夫人といっしょに散歩に出かけた。勝手に話のできる機会はいくらもあった。しかしクリストフは口をきくことができなかった。それが非常につらかったので、途中ではできるだけミンナから離れていた。ミンナはその失礼に気づかないふりをしていた。しかし癪《しゃく》にさわって、明らさまに見せつけてやった。クリストフがついに思いきって何か言おうとした時、彼女は冷かな様子でそれを聞いた。彼はその文句をしまいまで言い切るのもやっとのことだった。散歩は終りかけていた。時間は過ぎていった。そして彼はその機を利用できなかったのが残念でたまらなかった。
 一週間過ぎた。彼らは相互の感情を考え違いしてると思った。先日の夕方のことは、夢ではなかつたかと疑った。ミンナはクリストフに恨みを含んでいた。クリストフはミンナ一人に出会うのを怖《おそ》れていた。彼らはいつになくますます冷淡になっていた。
 ついにある日が来た。――午前中と午後少し雨が降った。彼らは家の中に閉じこもり、言葉もかわさず、書物を読んだり、欠伸《あくび》をしたり、窓から外を眺めたりした。退屈でくさくさしていた。四時ごろ空が晴れた。二人は庭に飛び出した。高壇《テラース》の手摺《てすり》に肱《ひじ》をついて、河の方へ低くなってる芝生の斜面を眼の下に眺めた。地面は湯気をたてて、生温《なまあたたか》い水蒸気が日向《ひなた》に立ち上っていた。雨の雫《しずく》が草の上に閃《ひらめ》いていた。濡れた地面の匂いと花の香りとが、いっしょに交っていた。彼らのまわりには、金色の蜂《はち》が羽音をたてて飛んでいた。彼らは相並んだまま、たがいに見向きもしなかった。思い切って沈黙を破ることができなかった。一匹の蜂が、雨に重くなってる一房の藤《ふじ》の花にうっかりとまって、ぱっと水を浴びた。二人は一度に笑いだした。するとすぐに、もうたがいに気を悪くしてるのでないことを感じ、仲のいい友だちであることを感じた。けれどもやはり顔を見合わせなかった。
 突然、振向きもしないで、彼女は彼の手をとり、そして言った。
「いらっしゃいよ。」
 彼女は彼を引っぱりながら、小さな木立の迷宮の方へ駆けていった。両側に黄楊《つげ》の植わってる小径《こみち》が縦横に通じていて、林の
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