れで彼女は意趣返しに、できるだけ拙《まず》くひこうとくふうすることもあった。彼女はかなりの音楽家だったが音楽を好んでいなかった――多くのドイツ婦人のように。しかしまたその例にもれず、音楽を好まなければならないと思っていた。そしてかなり本気に稽古《けいこ》を受けていた。しかし時々は、教師を怒らすために、意固地《いこじ》な真似《まね》をするのだった。そのうえに、冷淡無関心な学び方で、いっそう教師を怒らした。最もいけないのは、ある表情的な楽節の中に魂をうち込まなければならないと彼女が考えてる時であった。そういう時彼女は感傷的になっていたが、何にもほんとうに感じてはいなかった。
少年クリストフは、彼女のそばにすわって、さほど丁寧《ていねい》でなかった。決してお世辞を言わなかった、お世辞を言うどころではなかった。彼女はそれに恨みをいだいて、彼から注意を受けるとかならず口答えをした。彼が言うことにはなんでも逆らった。自分が間違えた時でも、書いてあるとおりにひいたんだと強情を張った。彼はいらだった。そして二人は無作法な言葉を言い合った。彼女は鍵盤《キイ》に眼を伏せながら、クリストフの様子を窺《うかが》い、その憤りを面白がった。退屈をまぎらすために、いろんな馬鹿な策略を考えついて、稽古の邪魔をしクリストフをいじめようとばかりした。気をもませるために息づまった真似をした。またはやたらに咳《せ》き込んだり、あるいは女中に大事なことを言い忘れてるなどと言った。クリストフはそれを狂言だと知っていた。ミンナはクリストフにそう知られてることを知っていた。そして彼女はそれを面白がった。なぜなら、クリストフは自分の思ってることを彼女にそう言うことができなかったから。
ある日、彼女はそういう気晴らしをまた始めて、切なそうに咳をつづけ、顔をハンケチに埋め、あたかも息がつまりかけてるようなふうをした。そしていらだってるクリストフを横目で窺《うかが》っていた。その時彼女は、ハンケチを落してクリストフに拾わしてやろうと、うまいことを考えついた。クリストフはこの上もなく無愛想な様子で拾ってやった。彼女は貴婦人ぶった「ありがとう!」の一言をそれに報いた。彼はも少しで怒鳴り出そうとした。
彼女はその戯れをたいへん面白いと考えて、なおくり返そうとした。そして翌日それをやった。クリストフは動かなかった。憤りにむかむかしていた。彼女はちょっと待ったが、それから不満な調子で言った。
「ハンケチを拾ってくださいませんの?」
クリストフはもう我慢しきれなかった。
「私はあなたの召使じゃありません。」と彼はぞんざいに叫んだ。「自分でお拾いなさい。」
ミンナは息がつまった。にわかに腰掛から立ち上がった。腰掛は倒れた。
「あんまりだわ。」と彼女は言いながら、腹だたしく鍵盤をたたいた。そしてひどい勢で室から出て行った。
クリストフは彼女を待った。彼女はもどって来なかった。彼は自分の行ないが恥ずかしかった。無頼漢みたいなことをしたと感じた。で彼は進退きわまった。彼女からはあまりに厚かましい嘲弄を受けていたのである。彼はミンナが母親に訴えはすまいかと恐れた、ケリッヒ夫人の心が変わってしまいはすまいかと恐れた。彼はどうしていいかわからなかった。自分の乱暴を後悔はしていたが、許しを乞う気にはどうしてもなれなかった。
翌日彼は、ミンナが稽古《けいこ》を受けることを拒むかもしれないと考えてはいたけれど、とにかくまたやって来た。しかしミンナは、高慢な心からだれにも言いつけなかったし、もとより多少良心にやましい点がないでもなかったので、普通より五分ばかり長く待たしただけで、そこに出て来た。そして、クリストフのことなんか眼中にないかのように、ふり向きもせず、一言もいわず、まっすぐにつんとして、ピアノの前に行ってすわった。それでもやはり、彼から稽古を受けたし、なお引きつづいて彼から学んだ。というのは、クリストフが音楽に通じてることをよく知っていたし、また、自分がなろうと考えてるもの、すなわち生まれのよいりっぱな教育のある令嬢――それになろうとするには、ピアノをよく覚えなければならないということを、よく知っていたからである。
けれども、彼女はいかに退屈してたことだろう! 彼らは二人とも、いかに退屈してたことだろう!
霧深い三月のある朝、細かな雪が羽毛のように灰色の空中に飛び舞っていた時、二人は研究室《スチューディオ》にいた。室内はほの暗かった。ミンナは音符を一つ間違えて、いつものとおり言い争い、「そう書いてある」と言い張った。彼女が嘘《うそ》を言ってることはよくわかっていたけれども、クリストフは楽譜の上に身をかがめ、問題の楽節をまぢかに見ようとした。彼女は譜面台の上に片手を置いていて、それをのけ
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