みずからよくわからなかった。真面目《まじめ》に考えてみても、どちらを選んでいいかわからなかった。それでも、どうしても決定しなければいけないらしかったので、ケリッヒ夫人の方に心を傾けてみた。そして実際、その決心をするや否や、自分が恋しているのは彼女をであることがわかった。彼女の怜悧《れいり》な眼、半ば開いた口の無心な微笑《ほほえ》み、細やかな滑《なめ》らかな髪を横の方で分けているその若々しい麗わしい額、軽い咳《せき》を交える多少曇った声音、母性的なやさしい手、優雅な動作、知りがたいその魂、それらを彼は恋していたのである。彼女がそばにすわって、わからない書物の一節を親切に説明してくれる時、彼は幸福のあまり身を震わした。彼女はクリストフの肩に手を置いていた。その指の温みを彼は感じ、自分の頬《ほお》にかかる彼女の息を、彼女の身体の快い香りを、彼は感じた。恍惚《こうこつ》として耳を傾けながら、もはや書物のことは考えもせず、何にも了解しなかった。彼女はそれに気づいた。今言ったことをくり返さした。彼は黙っていた。彼女は笑いながら怒って、彼の顔を書物に押しつけ、そんなふうではいつまでたっても小さな驢馬《ろば》だと言った。彼はそれに答え返して、彼女[#「彼女」に傍点]の小さな驢馬でさえあるならば、彼女から追い出されさえしなければ、驢馬でもかまわないと言った。彼女はわざわざ小言をいってみた。それから、彼はごく馬鹿な賤《いや》しい小さな驢馬ではあるけれども、たといなんの役にもたたなくとも、せめてただおとなしく[#「おとなしく」に傍点]さえしていれば、家に置いてやることは――そしてまたかわいがってやることをも――承知すると言った。二人とも笑っていた。彼は喜びの中に浸っていた。
ケリッヒ夫人に恋してることがわかって以来、クリストフはミンナから離れていった。人を軽蔑した彼女の冷淡さに憤り始めた。そして、彼女としばしば会っていたので、しだいに遠慮しなくなってきたから、彼はもう自分の不機嫌《ふきげん》さを隠さなかった。彼女は好んで彼につっかかり、彼はそれにきびしく応答した。彼らはいつも不快なことを言い合った。ケリッヒ夫人はそれをただ笑うばかりだった。クリストフはその言葉争いに勝目がなかったから、時には憤然として出て行って、ミンナを大嫌いだと考えることもあった。そしてまたその家へもどって行くのも、ただケリッヒ夫人がいるからだと思い込んでいた。
彼は引きつづいてミンナにピアノを教えていた。一週に二回、朝九時から十時まで、音階と練習とを監督してやった。二人のいる室はミンナの研究室《スチューディオ》だった。不思議な勉強室で、この少女の頭脳の奇妙な乱雑さを、おかしなほど忠実に反映していた。
テーブルの上には、猫《ねこ》の音楽家ら――一そろいの管弦楽団――の、あるいはヴァイオリンをひいてるのもあれば、あるいはチェロをひいてるのもある、小さな像が置いてあって、そのほか懐中鏡、化粧道具、文房具、なども整然と並べてあった。棚の上には、しかめ顔をしたベートーヴェンや、大黒帽をかぶったワグネルや、ベルヴェデールのアポロンなど、音楽家らのごく小さな胸像がのっていた。暖炉の上には、葦《あし》のパイプをくゆらしてる蛙《かえる》のそばに、紙の扇があって、その扇面にはバイロイトの劇場が描いてあった。二段になってる書棚には、リュープケ、モムゼン、シルレル、ジュール・ヴェルヌ、モンテーニュ、などの著書と、家なき子[#「家なき子」に傍点]とがあった。壁には、シクスティーヌの聖母とヘルコメルの絵との大きな写真がかかっていて、青と緑とのリボンで縁取ってあった。また、銀の薊《あざみ》のついた額縁にはいってるスウィスの旅館の景色もあった。とくに、室の隅々《すみずみ》まで方々に、将校やテナー歌手や楽長や友だちなどの写真がごっちゃにかかっていた――捧呈《ほうてい》の文句がついていて、ほとんどどれにも、詩が、少なくともドイツで詩と称せられてる句が、書き入れてあった。室のまんなかには、大理石の台の上に、髯《ひげ》をはやしたブラームスの胸像が厳《おごそ》かに控えていた。そしてピアノの上には、絹綿ビロードの小猿《こざる》と方舞《コチョン》の記念品とが、糸の先にぶらさがっていた。
ミンナはまだ寝腫《ねはれ》っぽい眼をし、不機嫌《ふきげん》らしい様子をして、遅く出て来るのだった。クリストフに型ばかりに手を差出し、冷やかに挨拶《あいさつ》をし、黙って真面目にしかつめらしく、ピアノのところへ行ってすわった。一人きりの時には、しきりなしに音階をひいて喜んだ。そうしてると、半睡の状態や、みずから語ってる夢などを、心地よく長引かすことができるのだった。しかしクリストフは、むずかしい練習にしいて彼女の注意を向けさした。そ
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