荘厳な表情をしてるメルキオルの最後の眠りを見守りながら、彼は死者の陰闇《いんあん》な安らかさが心にしみ込むのを感じた。幼い情熱は、あたかも発作の熱のように、消散してしまった。墳墓の冷やかな息吹《いぶ》きが、すべてを吹き去ってしまった。ミンナも、彼の矜《ほこ》りも、彼の恋愛も、ああ、いかにくだらないものであったか! この現実、唯一の現実、死、それに比べては、すべてはいかにつまらないものであったか! ついにはかくなり果てるのならば、あんなに苦しみ、あんなに欲求し、あんなにいらだったのも、なんの甲斐《かい》があったろう。
 彼は眠ってる父を眺めた。しみじみと限りない憐れみを感じた。父の親切や情愛の些細な行ないまで思い出した。メルキオルは多くの欠点をそなえてはいたが、悪人ではなかった。彼のうちには多くの善良さがあった。彼は家庭の者を愛していた。彼は正直であった。クラフト家通有の一徹な誠実さは、道徳と名誉との問題においてはなんら非難の余地がなかったし、社会の多くの人が罪とも認めないほどのごくわずかな道徳上の汚行をも決して仮借しなかったのであるが、彼もそれを多少そなえていた。彼は勇敢だった。いかなる危険な場合にあっても、一種の楽しみをもって身をさらしていた。彼は自分のために散財してはいたが、また他人のためにも散財していた。人が悲しんでるのをたえることができなかった。途中で出会う貧しい人々にたいしては、自分の物を――また他人の物を――喜んでほどこしていた。それらのあらゆる父の美点が、今クリストフに見えてきた。彼はそれを誇張して眺めた。父を見誤ってたような心地がした。十分に父を愛していなかったことを、自らとがめた。生活にうち負かされた父の姿が、眼に映った。流れのままに押し流され、闘《たたか》うにはあまりに弱く、そして空しく失った生涯を嘆いている、その不幸な魂の声を、彼は耳に聞くような気がした。以前彼の胸をえぐる調子で言われた、あのいたわしい願いの言葉が聞えてきた。
「クリストフ、おれを馬鹿にするなよ!」
 そして彼は後悔の念にたえなかった。寝台の上に身を投げて、泣きながら死者の顔にくちづけした。彼は昔のようにくり返し言った。
「私のお父さん、私は馬鹿にしやしません。あなたを愛しています。許してください!」
 しかし訴える声は静まらないで、苦しげに言いつづけた。
「おれを馬鹿にするな
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