から眼を離さず、恵みの一|瞥《べつ》を懇願していた。しかし彼女が彼を見る時――それもまれにであって、彼よりもむしろ母の方に話しかけていたが――彼女の眼はその声と同じく、愛嬌《あいきょう》はあるが心がこもっていなかった。彼女は母がいるので用心したのであろうか? 彼は彼女と二人きりで話がしたかった。しかしケリッヒ夫人は片時も彼らから離れなかった。彼は自分のことに話を向けようと試みた。自分の仕事や抱負のことを話した。ミンナが自分から逃げようとしてることを彼は感じた。そして彼女の心を引きつけようと努めた。実際彼女は、非常に注意して彼の言葉に耳傾けてるらしかった。彼の話に種々の感嘆詞を插《はさ》んだ。それはいつもうまくあてはまるとは言えなかったが、しかしその調子には心|惹《ひ》かれてるさまが現われていた。けれども、彼がそのあでやかな微笑《ほほえ》みに心酔って、また希望をいだき始めた時、ミンナが小さな手を口にあてて欠伸《あくび》をするのが眼にとまった。彼はぴたりと話をやめた。彼女は気がついて、疲れを口実に愛想よく言い訳をした。彼はまだ引止められることと思いながら立上がった。しかしだれもなんとも言ってくれなかった。彼はぐずぐず挨拶《あいさつ》を長引かし、明日また来るように言われるのを待った。がそれも問題にはならなかった。彼は帰って行かなければならなかった。ミンナは送っても来なかった。彼女は手を差出した――無関心な手を。それは彼の手の中に冷やかに託された。そして彼は客間の中で彼女と別れた。
彼は心おびえながら家にもどった。二か月以前のミンナは、彼のなつかしいミンナは、もう何一つ残っていなかった。何事が起こったのか? 彼女はどうなったのか? このあわれな少年は、生きた魂の、それも大部分は個々の魂ではなくて、たえず相次ぎ消え失せる一団の魂であるが、そういう生きた魂の不断の変化を、全部の消滅を、根本的の更新を、まだかつて経験したことがなかったので、彼にとっては、単純な事実もあまりに残酷であって、それを信じようと心をきめることができなかった。彼は恐れてその考えをしりぞけ、自分の方で見当違いをしたのであって、ミンナはやはり同じミンナであると、むりにも思い込もうとした。翌朝また彼女のところへ行って、ぜひとも話そうと、彼は決心した。
彼は眠らなかった。夜じゅう、柱時計の打つ音を一々数えた。ご
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