た。夜中を当《あて》もなく歩き回った。空気はさわやかで、野は暗く寂しかった。梟《ふくろう》が寒そうに鳴いていた。彼は夢遊病者のように歩いていった。葡萄《ぶどう》畑の中にある丘に上った。町の小さな灯《ひ》が平野の中に震えていて、星が暗い空に震えていた。彼は路傍の土壁に腰掛けた。にわかに涙がほとばしった。なぜだかみずからわからなかった。彼はあまりにも幸福だった。その過度の喜びは、悲しみと嬉《うれ》しさとでできていた。その中に彼は、自分の幸福にたいする感謝を、仕合わせでない人々にたいする憐れみを、事物の無常さから来るもの悲しい甘い感情を、生きることの酣酔《かんすい》を、交えていた。彼は楽しく涙を流した。涙のうちに眠っていった。眼を覚《さま》すと、ほのかな曙《あけぼの》になっていた。白い霧が河の上にたなびき、町を包んでいた。そこにはミンナが、幸福の笑みに心を輝かしながら、疲れに負けて眠っていた。

 朝のうちから彼らは首尾よく庭で会うことができて、たがいに愛してるとまた言い交わした。しかしもうそれは、前日のような聖い無我の心地ではなかった。彼女は多少恋人らしい芝居をしていた。彼の方は、彼女よりも誠実ではあったが、やはりある役割をつとめていた。彼らは将来の生活を話し合った。彼は自分の貧困やつまらぬ身分を嘆いた。破女は鷹揚《おうよう》なふりをして、みずからその鷹揚さを楽しんだ。金銭には無頓着《むとんじゃく》だと自分で考えていた。そして実際無頓着だった。金に不自由をしたことがないので、金銭というものをほんとうによくは知っていなかったのである。彼は大芸術家になると誓った。彼女はそれをあたかも小説のように面白い美しいことだと思った。彼女は真の恋人のように振舞うのを義務だと信じた。詩を読んで感傷的になった。彼もその気分に感染した。彼は自分の服装《みなり》に心を配りだした。滑稽《こっけい》だった。口のきき方にも注意しだした。気障《きざ》だった。ケリッヒ夫人は笑いながら彼を見守って、どうしてそんな馬鹿げたふりをするようになったか怪しんでいた。
 しかし二人には、えもいえぬ詩的な瞬間があった。やや蒼《あお》ざめた日々のさなかに、霧を通して日の光がさすように、その瞬間が突然輝き出すのであった。それはある眼付や身振りや言葉の瞬間で、なんの意味もないものではあるが、二人を幸福のうちに包み込むのだっ
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