驚くべき平然さをもって、おのれの夢想を忘れてしまうものである。
 要するに、ミンナは感傷的だが冷静であった。貴族的な名前とそれから来る矜《ほこ》りの念とにもかかわらず、彼女は青春の妙齢に達すると、ドイツの小家庭の主婦らしい魂をもっていた。

 クリストフはもとより、婦人の心の複雑な――実際よりも外見の方がいっそう複雑な――構造を、少しも了解していなかった。二人の美しい女友だちのやり方に、しばしば面食《めんくら》った。しかし彼女らを愛するのが非常に嬉《うれ》しかったので、多少自分を不安になし悲しませる彼女らの様子もみな許してやって、こちらと同じように向うからも愛されてると思い込もうとした。情けある一言や一|瞥《べつ》に、彼は夢中になって喜んだ。時には涙を流すほど心が転倒することもあった。
 静かな小さい客間の中で、ランプの光で裁縫をしてるケリッヒ夫人から数歩のところに、テーブルの前にすわっていると――(ミンナはそのテーブルの向う側で、書物を読んでいた。二人は話もしなかった。庭に向かってる半開きの扉《とびら》から、小径《こみち》の砂が月光に輝いてるのが見えていた。軽いささやきが木々の梢《こずえ》から伝わっていた……)――彼は心からしみじみと幸福を感じた。と突然、わけもなく、彼は椅子《いす》から飛び上がって、ケリッヒ夫人の膝《ひざ》に身を投げ、その手を、針をもってる時ももってない時もあったが、その手をとってやたらに接吻しながら、口や頬《ほお》や眼を押しあててすすり泣くのであった。ミンナは書物から眼を上げ、軽く肩をそびやかして、かわいらしく口をとがらした。ケリッヒ夫人は、自分の足下に転がっている大子供を微笑《ほほえ》みながらうち眺め、自由な片方の手でやさしく彼の頭をなでてやり、情けのあるまた皮肉な美しい声で言うのであった。
「まあ、お馬鹿さんね、どうしました?」
 ああいかに楽しいことであるか、その声、その平和、その静寂、叫びも衝突も乱暴もないその柔い空気、辛《つら》い生活のさ中のオーシス、そして――事物や人々を金色の反映で染める霊妙な光輝――力と苦悩と愛との急湍《きゅうたん》たる、ゲーテやシルレルやシェークスピアなど、神のごとき詩人の作を読みながら浮かび出す、その玄妙なる世界の霊妙な光輝……。
 ミンナは書物の上に頭を傾《かし》げ、文章に熱して軽く顔を染め、さわやかな声で
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