ではなかった。彼女には善良な友情だけで十分だった。彼女は冷静な官能とやさしい精神とをもっていた。
 彼女は娘の教育に一身をささげていた。愛し愛されようという妬《ねた》み深い女の要求が、ただその子供をのみ対象とするようになると、母親というものは往々過激な病的なところを帯びてくるものであるが、ケリッヒ夫人が愛についてもっていた節度は、それをよく軽減していた。彼女はミンナを愛撫《あいぶ》していたが、しかし明確な判断をミンナにくだして、その欠点を一つも見落そうとしなかったし、実際以上の幻をかけようなどとはさらにしなかった。明敏で賢い彼女は、的確な眼をもっていて、人の弱点や滑稽《こっけい》な点を一目に見てとることができた。悪意は少しもなかったが、それを見てとるのを愉快がっていた。彼女は嘲弄《ちょうろう》的な気質と寛大な気質とをともに具えていたのである。そして人を揶揄《やゆ》しながらも、人の世話をするのが好きだった。
 少年のクリストフは、彼女の親切と批評的精神とに活動の機会を与えた。彼女がこの小都会へやって来た初めのうちは、大喪《たいそう》のために社会から遠ざかっていたので、クリストフが気晴らしの種となった。第一には彼のすぐれた技倆からであった。彼女は音楽家ではなかったけれども、音楽を愛していた。音楽に肉体的のまた精神的の安楽を見出し、その安楽のうちで彼女の思念は、快い憂愁の中に懶《ものう》く浸り込んでゆくのだった。暖炉のそばにすわり――クリストフが演奏してる間――編物を手にし、ぼんやり微笑《ほほえ》みながら、機械的に編物の指を働かせることに、また、過去のあるいは悲しいあるいは楽しい面影の間に漂っている、自分の夢想の定かならぬ揺めきに、黙々たる愉悦を味わった。
 しかし彼女は音楽よりも、その音楽家の方にいっそう興味を覚えていた。彼女はかなり怜悧《れいり》で、たといクリストフの真の独創の才を見分けることはできなかったにしろ、その稀有《けう》な天稟《てんぴん》を感ずることができた。彼のうちにその不思議な炎がきざしてるのを見て、それが燃え出す様子を見守ることに、好奇な快さを感じた。また彼の精神上の長所、すなわちその方正、その勇気、子供としては感嘆すべき一種の堅忍などを、彼女はすぐに見てとった。それでも彼女はやはり、精緻《せいち》な嘲弄的な眼のいつもの鋭敏さで、彼を眺めてやめなかった
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