事をしてゆくようにと、ケリッヒ夫人に言われた時、彼の恐縮は幸福に変わった。彼の食席は母と娘との間に設けられた。ピアノよりも食卓の腕前の方がずっとまずいと、一同から判断された。この方面の彼の教養はひどく閑却されていた。食卓では、飲食が肝心なことで、作法なんかは重大なことではないと、信じてる傾きがあった。それできれい好きなミンナは、むっとしたしかめ顔で彼を眺めていた。
 食事の後には彼はすぐ辞し去ることと、皆は予期していた。しかし彼は二人の後について、小さな客間にいり、いっしょにすわり込んで、帰ることは頭に浮べてもいなかった。ミンナは欠伸《あくび》をかみつぶして、母の方に合図をした。彼はそれに気づかなかった。幸福に酔ってしまって、皆も自分と同じ心地だと――なぜなら、ミンナは彼を眺めながら、やはりいつもの癖で流し目を使っていたから――考えていたし、また、一度すわり込むともう、どういうふうに立上がって暇《いとま》を告げていいものかわからなかった。もしケリッヒ夫人が、遠慮のないしかもやさしいとりなしで、彼を帰らしてやらなかったら、彼は夜通しそこに留っていたかもしれなかった。
 彼は帰ってゆきながら、ケリッヒ夫人の褐色の眼とミンナの青い眼との、やさしみのある光を心にいだいていた。手の上には、花のように繊麗《せんれい》な指先の、こまやかな接触を感じていた。そしていまだかつて嗅《か》いだことのない美妙な香《かお》りに、包み込まれ、恍惚《うっとり》となり、ほとんど気を失いかけていた。

 次の日に、約束のとおり、彼はミンナにピアノを教えに来た。それ以来彼は、稽古《けいこ》を口実にして、きまって一週に二回ずつ、午前中にやって来た。そして音楽をひいたり話をしたりして、夕方もどることもしばしばだった。
 ケリッヒ夫人は快く彼に会っていた。彼女は怜悧《れいり》な親切な女であった。夫を失った時は三十五歳だった。そして身も心も若かったが、深くはいり込んでいた社交界から惜気《おしげ》もなく退いてしまった。おそらく彼女は、そこで非常に面白い目に会ってきたし、また、味わいつくしておいてなお味わうことはできないという健全な考えをいだいていたので、たやすく隠退することができたのであろう。彼女はケリッヒ氏の追想に愛着していた。けれども、いっしょに生活していた間、愛に似た感情を彼にたいしていだいたことがあるの
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