た。
「しッ、眠らしておきなさいよ!」
 そして人々は声を低めて話した。けれどもクリストフは耳をそばだてて、仔細《しさい》のことを偸《ぬす》み聞いていた、腸チフス、冷水浴、精神錯乱、両親の悲痛。彼はもう息もつけなかった。ある塊《かたま》りが呼吸をふさいで、首まで上ってきた。彼は慄《ふる》え上がった。それらの恐ろしいことが頭に刻み込まれた。とくに病気は伝染性のものであるということを耳に止めた、言い換えれば、自分もまた同じようにして死ぬかもしれないということを。そして恐怖の念に慄然《りつぜん》とした。最後に会った時フリッツと握手したことを、そして今日も彼の家の前を通ったことを、思い出したからである。――けれども彼は、口をきかなければならないような羽目に陥らないために、少しの音もたてなかった。隣りの女が帰っていった後、「クリストフ、眠ってるのか、」と父に尋ねられた時、彼は返辞もしなかった。ルイザに言ってるメルキオルの声が聞えた。
「あの子は心なしだ。」
 ルイザはなんとも答え返さなかった。けれどもすぐその後で、彼女はやって来て、静かに垂幕をあげ、子供の寝床を眺めた。クリストフはその隙《すき》に辛《かろ》うじて、眼をつぶることができ、弟どもが眠ってる時聞き知ったその規則的な呼吸を真似《まね》ることができた。ルイザは爪先《つまさき》で立去った。彼はどんなにか彼女を引留めたかった。いかに自分が恐《こわ》がってるかを話し、自分を救ってくれるように頼み、少なくとも自分を安心さしてくれるように頼むことを、どんなにか願っていたろう! けれども、笑われはしないかを、卑怯《ひきょう》者と言われはしないかを、恐れていた。それにまた、口先で言われる言葉はすべてなんの役にも立たないということを、もうあまりに知りすぎていた。そしていく時間もの間、一人でじっと悶《もだ》えながら、病気が自分のうちに忍び込んでくるのを感ずるような気がし、頭痛や胸苦しさにとらえられてるような心地がして、おびえたまま考えていた、「もう駄目《だめ》だ、私は病気だ、じきに死ぬんだ、じきに死ぬんだ!……」一度寝床の上に起き上がって、低い声で母を呼んでみた。しかし両親は眠っていた。それを呼び起こすだけの元気もなかった。
 その時以来、彼の幼年時代は死の観念で毒された。彼は神経のために、胸苦しさや、激しい痛みや、突然の息づまりなど、原因もないさまざまの軽微な症状に襲われた。彼の想像はそれらの苦悩のために狂乱して、そのたびごとに、自分の生命を奪おうとしてる猛獣を眼に見るように思った。母親の近く数歩のところにいても、すぐそのそばにすわっていても、幾度か彼は死ぬような苦しみを感じた。しかも彼女は何にも察していなかった。なぜなら、彼はそれほど臆病《おくびょう》なくせに、恐怖を自分の胸にしまっとくだけの勇気をももっていた。それは種々な感情の不思議な混合からであった、他人に頼るまいとする高慢、恐《こわ》がることの恥ずかしさ、心配をかけまいとする細やかな情愛など。しかし彼はたえず考えていた。「こんどはほんとうに病気だ、重い病気だ。ジフテリアの初めだ……。」彼はジフテリアという言葉を聞きかじっていた。「ああ神様、こんどだけは許してください!……」
 彼は宗教上の観念をもっていた。彼は母が語ってきかせることを進んで信じていた。人の死後、魂は主《しゅ》のもとにのぼってゆくことだの、信心深い魂は楽園にはいることだのを、信じていた。しかしそういう魂の旅に、彼は心|惹《ひ》かるるというよりもむしろ多く脅かされた。母の言葉によれば、いい子供たちはその褒美《ほうび》として、睡眠中に神様からさらわれてお側《そば》に呼び寄せられ、しかもなんの苦しみも受けないそうであったが、彼はそういう子供を少しもうらやましいとは思わなかった。眠る時になると、神様が自分にたいしてもそういう悪戯《いたずら》をしはすまいかと、うち震えていた。ふいに温かい寝床から引き出され、虚空《こくう》に引きずってゆかれ、神様の前に立たされるのは、思っても恐ろしいことに違いなかった。神というものを、雷のような声を出す非常に大きな太陽みたいに、彼は頭の中で想像していた。どんなにか大きな危害を受けるに違いなかった。眼をやき、耳をやき、魂をも焼きつくすに違いなかった! それから、神は罰を下すかもしれなかった。どうだかわかるものではない……。――そのうえ、他の種々な恐ろしいこともそのためになくなりはしなかった。それらの恐ろしいことを彼はよく知ってはいなかったが、しかし人々の話でおおよそは察せられた。身体を箱の中につめられ、穴の底に一人ぽっちにされ、多くの厭《いや》な墓の中にほうり出され、そこで祈らせられること……。ああ、ああ、なんという悲しいことか!……
 そうかといって、酔っ払いの父の姿を見、乱暴なことをされ、種々な苦しみを受け、他の子供たちからいじめられ、大人たちからは侮辱的な憐れみを受け、そしてだれからも理解されず、母親からも理解されずに、生をつづけてゆくということは、決して楽しいことではなかった。万人から辱《はずかし》められ、だれからも愛せられず、ただ一人で、一人ぽっちで、しかも非常に頼り少ないのだ!――正にそのとおりだった。しかしそのことがまた、彼に生きる欲望をも与えていた。彼は自分のうちに、憤激して沸きたつ力を感じていた。その力こそ実に不思議なものだ! その力はまだ何をもなしえなかった。遠くにあって、猿轡《さるぐつわ》をはめられ、手足を縛られ、痲痺《まひ》してるようだった。その力が何を望んでいるのか、やがて何になろうとするのか、彼には想像もつかなかった。しかしその力は彼自身の中にあった。彼はそれを疑わなかった。それは振い動いて、怒号していた。明日《あした》は、明日は、その力が復讐《ふくしゅう》してくれるであろう! あらゆる害悪を復讐し、あらゆる不正を復讐し、悪人を罰し、大事をなさんがために、彼は生きたいという激しい願望をいだいていた。「おう、ただ生きてさえおれば……(彼はちょっと考え込んだ)……せめて十八歳まで!」――またある時は、二十一歳までと引延した。それが極限であった。それだけで世界を支配するには十分だと彼は信じた。彼はなつかしい英雄らのことを考えていた、ナポレオンのことを、またそれより時代は遠いがいちばん好きであるアレキサンドル大王のことを。もう十二年……十年、生きてさえおれば、かならず彼らのようになるだろう。彼は三十歳で死ぬ者を気の毒だとは思わなかった。三十歳といえばもう老人だった。人生を十分に生きてしまったものだった。もし生きなかったとすれば、罪は当人にあるのだった。しかし自分が今死ぬのは、なんという絶望なことだろう! まだ子供のままで消えてしまうのは、そして、だれにでも叱《しか》ってかまわないと思われるような小さな子供のままで、人々の頭の中に永久に残ってることは、あまりに不幸すぎることである! 彼はそれを憤激しながら嘆いた、あたかもすでに自分が死んでしまったかのように。
 そういう死の懊悩《おうのう》が彼の幼年時代の数年間を苦しめた。――その懊悩はただ、生《せい》の嫌悪《けんお》によってのみ和げられるのだった。

 そういう重々しい闇《やみ》の真中において、一刻ごとに濃くなってゆくように思われる息苦しい闇夜の中において、陰暗な空間に埋もれた星のごとくに輝き出したのである、彼の生涯を照らすべき光明が、聖なる音楽が……。
 祖父は古いピアノを一つ子供たちに与えておいた。彼をひいきにしてる人々の一人が片づけてくれと頼んだ品で、気長なくふうをこらしてどうかこうか取り繕ったものだった。その贈物は皆からあまり喜ばれなかった。そんな物を置かないでも室はもうかなり狭くなってると、ルイザは思った。親父《おやじ》のジャン・ミシェルは大して金を出して手に入れたのでもないと、メルキオルは言った、焚付《たきつけ》同様の代物《しろもの》であると。ただ小さなクリストフだけは、なぜだか知らないがその新しい到来物が嬉《うれ》しかった。ちょうど、祖父が時々いくページかを読んでくれて、いつも二人で夢中になった、あのアラビア夜話の書物のように、驚くべき物語でいっぱいになってる魔法箱のように思われた。父がその音色をためすために、小雨のような琶音《アルペジオ》をひき出した時、彼はそばで聞いていた。驟雨《しゅうう》の後に暖かい一陣の風が、濡れた樹木の枝から振い落す小雨にも似ていた。彼は手をたたいて叫んだ、「もっと!」しかしメルキオルは、くだらない品だと言いながら、軽蔑《けいべつ》の様子でピアノの蓋《ふた》をしめてしまった。クリストフはそのうえせがまなかった。けれども彼はたえずその楽器のまわりをうろついた。そしてだれもこちらを見ていないと、蓋をもち上げて、鍵《キイ》を押した、あたかも何か大きな虫の青い甲羅《こうら》を指先で動かすかのように。彼はその中にはいってる動物をつつき出したかった。時とすると、気が急《せ》くあまり、少し強すぎるくらいに鍵をたたくこともあった。すると母に叱られた。「静かにしておいでったら。手を触れちゃいけません!」あるいはまた、蓋をしようとして手をはさまれた。彼は痛めた指先をしゃぶりながら、悲しそうに顔をしかめていた……。
 今や彼のいちばん大きな喜びは、母が一日雇われて出かけてゆく時か、町に用達《ようたし》に出かける時かであった。彼は階段を降りてゆく足音に耳を傾ける。足音は早くも表に出で、しだいに遠ざかってゆく。彼は一人きりである。ピアノを開き、椅子《いす》を近寄せ、その上にすわる。肩が鍵盤《けんばん》の高さになる。それだけでもう十分だ。なぜ彼は一人になるのを待つのか? あまり大きな音さえたてなければ、だれもひくのをとがめはしないではないか。しかし彼は人前を恥ずかしがっている。思い切ってやれない。それにまた、皆が話をしたり動き回ったりする。それが楽しみをそこなう。一人きりの時に限るのである!……クリストフは息をこらす、なおいっそうあたりを静かにするためである。そしてまた、大砲でも打とうとしてるかのように多少興奮してるからである。鍵《キイ》に指先をあてると、胸がどきどきする。時々、指を半ば埋めた後にまたはずして、他の鍵の上に置く。前のよりこんどのからどんなものが出て来るか、わかりはしない。突然音が高まる。深い音、鋭い音、響く音、唸《うな》る音。それらの音が一つ一つかすかになって消えてゆくのを、彼は長く聴《き》きとれる。それらは鐘の音のように揺いでいる、野の中にいる人の耳に、風がもたらしてはまた一つ一つ遠くへ吹き送る鐘の音のように。次に耳を傾けると、虫の羽音のような、入り交って渦《うず》を巻いてる他の種々な声が、遠くに聞える。人を呼びかけるようである、遠くへ誘ってゆくようである……遠くへ……ますます遠くへ、神秘な奥深いところへ。そして声はそこにはいり込んで、深くもぐり込む……もう消えてしまった!……いや、まだささやいている……小さな羽ばたき……。なんという不思議なことであろう。精霊のようである。精霊がこのとおり素直にしてるとは、この古い箱の中に囚《とら》われとなってるとは、まったく訳がわからないことだ!
 しかし最も面白いのは、同時に二本の指を二つの鍵《キイ》にのせる時である。どんなことが起こるか前から決してわかりはしない。時とすると、二人の精霊が敵《かたき》同士のこともある。彼らは怒りたち、殴り合い、憎み合い、癪《しゃく》にさわったように唸《うな》りだす。たがいの声が高まる。あるいは憤って、あるいはやさしく、叫びたてる。クリストフはそのやり方が大好きである。縛られた怪物が、鎖をかみ牢屋《ろうや》の壁にぶっつかってるようである。怪物は今にも壁を破って外に飛び出そうとしてるかと思われる。物語の書物に書かれてる怪物のようである、ソロモンの印璽《いんじ》の下にアラビアの手箱の中に閉じ込められてる悪鬼のようである。――またあるものは媚《こ》びてくる。騙《だま》し賺《
前へ 次へ
全23ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング