実に乱暴だ、子供に手を触れてはいけない、怪我《けが》をさしてしまったではないか、と夫に向かって怒鳴った。実際クリストフは少し鼻血を出していた。しかし彼はみずからそれをほとんど気にかけていなかった。そして母はなお叱りつづけていたので、彼女から濡《ね》れた布を手荒く鼻につめてもらっても、別にありがたいとは思わなかった。しまいに彼は薄暗い片隅に押し込まれて、そこに閉じこめられたまま晩飯も与えられなかった。
二人がたがいに怒鳴り合ってるのを、彼は聞いた。そしてどちらの方が余計憎いか分らなかった。母の方であるような気もした。なぜならそんな意地悪い仕打をかつて母から期待したことがなかったから。その日のあらゆる災害が一度に彼の上に圧倒してきた、彼が受けたすべてのこと、子供らの不正、夫人の不正、両親の不正、それから――よく理解できないがただ生傷のように感ぜられたことであるが――彼があれほど誇りにしていた両親が意地悪い軽蔑《けいべつ》すべき他人の前に頭の上がらないこと。彼が初めて漠然と意識したその卑怯《ひきょう》さは、いかにも賤《いや》しむべきことのように彼には思われた。彼のうちにあるすべては揺り動かされた、家の者らにたいする尊敬も、彼らから鼓吹された宗教上の敬畏《けいい》の念も、人生にたいする信頼の念も、他人を愛しまた他人から愛せられようという純朴《じゅんぼく》な欲求も、盲目的ではあるが絶対的である道徳上の信念も。それは全部の倒壊であった。身を護《まも》る手段もなく、身をのがれる術《すべ》もなく、獰猛《どうもう》な力のためにおしつぶされた。彼は息がつまった。もう死ぬような気がした。絶望的な反抗のうちに全身を凝り固めた。壁に向かって拳固《げんこ》や足や頭でぶつかってゆき、わめきたて、痙攣《けいれん》に襲われ、家具に突き当って怪我しながら下に倒れてしまった。
両親は駆けつけて来て、彼を腕に抱きとった。そしてこんどは、われ先にと彼にやさしくしてくれた。母は彼に着物をぬがせ、寝床に連れてゆき、その枕頭《ちんとう》にすわって、彼がいくらか落着くまでそばについていた。しかし彼は少しも心を和らげず、何一つ勘弁してやらず、彼女を抱擁すまいとして眠ったふりをした。母は悪者であり卑怯者であるように思われた。そして、生きるために、また彼を生きさせるために、彼女がどんなに苦しんでいるか、彼と反対の側に立って彼女がどんなに心を痛めたか、それを彼は夢にも知らなかった。
幼い眼の中に蓄えられてる驚くべき涙の量を、最後の一滴まで流しつくした後に、彼は少し気分がやわらいだ。彼は疲れていた。しかし神経があまり緊張していてよく眠れなかった。半ばうとうとしていると、先刻の種々な面影が浮かび出てきた。とくによく見えてきたのは、あの女の子であって、その輝いてる眼、人を軽んずるようにぴんとはね上がってる小さな鼻、肩に垂れてる髪の毛、露《あら》わな脛《すね》、子供らしいまた勿体《もったい》ぶった言葉つき、などまではっきり浮かんできた。彼はその声がまた聞えるような気がして身を震わした。彼女にたいしてどんなに自分が馬鹿げていたかを思い起こした。そして荒々しい憎悪を感じた。辱《はずか》しめられたことが許せなかった。そしてこんどは向うを辱しめてやろうと、彼女を泣かしてやろうと、たまらない願望に駆られた。彼はその方法を種々考えたが、一つも思いつかなかった。彼女がいつか自分に注意を向けようとは、どこから見ても考えられなかった。しかし心を安めるために、彼は万事が願いどおりになるものと仮定した。で彼は、自分がたいへん強いりっぱな者になったこととし、同時に、彼女が自分に恋をしてるときめた。そして彼は例の荒唐無稽《こうとうむけい》な話を一つみずから語り始めた。彼はついにそういう話を、現実よりももっと実際なことのように考えてるのだった。
彼女は恋々《れんれん》の情にたまらなくなっていた。しかし彼は彼女を軽蔑《けいべつ》していた。彼がその家の前を通ると、彼女は窓掛の後ろに隠れて彼が通るのを眺めた。彼は見られてることを知っていたが、それを気にも止めないふりをして、快活に口をきいていた。それからまた彼女の悶《もだ》えを増させるために、彼は故国を去って遠くへ旅した。彼は大きな手柄をたてた。――このところで彼は、祖父の武勇|譚《だん》から取って来たいくつかの条《くだり》を自分の話に織り込んだ。――彼女はその間に、悶々《もんもん》のあまりに病気になった。彼女の母親が、あの傲慢《ごうまん》な夫人が、彼のところへ来て懇願した。「私のかわいそうな娘は死にかかっています。お願いですから、来てください!」彼は行ってやった。彼女は寝ついていた。顔は蒼《あお》ざめて肉が落ちていた。彼女は彼に両腕を差出した。口をきくことはできなか
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