ばならなくなった。聴衆は待ちかねていた。宮廷音楽団の管弦楽《オーケストラ》は、コリオランの序曲[#「コリオランの序曲」に傍点]を奏し出した。子供はコリオランもベートーヴェンも知らなかった。彼はベートーヴェンの曲をしばしば聞いたことがあったが、それと知らないで聞いていたのだった。かつて彼は聞いてる作品の名前を気にかけたことがなかった。自分で勝手な名前をこしらえ出してそれに名づけ、その主題に、小さな物語やあるいは小さな景色をあてはめていた。彼は作品を普通三種に分類していた。火と土と水とであった。そしてそのおのおのにまた無数のいろんな細かい差異があった。モーツァルトは水に属していた。川端の牧場や、河上に漂う透きわたった靄《もや》や、春の小雨や、あるいは虹《にじ》であった。ベートーヴェンは火であった。ある時は、巨大な炎と広大な煙とをたてる烈火であった。ある時は、燃えてる森であり、電光のほとばしり出る恐ろしい重い雲であった。ある時は、燦爛《さんらん》たる光に満ちた大空であって、九月の麗わしい夜に、一つ離れて滑り落ち静かに消えてゆく、見ても胸踊るばかりの星が一つ、そこに見えていた。この音楽会の時もまた、その勇ましい魂の熱火がクリストフを焼いた。彼は炎の急湍《きゅうたん》に巻き込まれた。その他はすべて消え去った。その他はすべて彼にたいしてなんであったか? 狼狽《ろうばい》してるメルキオル、心痛してるジャン・ミシェル、忙しそうな皆の者、聴衆、大公爵、小さなクリストフ自身、それらのものに彼はなんの用があったか? 彼は自分をさらってゆく恐ろしい意力の手中にあった。彼はその後に従ってゆきながら、息をあえぎ、眼に涙を浮べ、足をすくめ、掌《たなごころ》から蹠《あしうら》にいたるまでぞっとしていた。血潮は襲撃の譜を鳴らしていた。そして彼は震えていた。……かくて、飾り框《かまち》の後ろに隠れ、耳をそばだて、じっと聴いているうちに、彼は心の底ではっとした。管弦楽はある小節の真中でぴたりと止っていた。そしてちょっと休んだ後、銅鑼《どら》やティムパニの大きな音で、公《おおやけ》の威勢をもって軍歌を奏し出した。その二つの音楽の移り変わりがあまりに粗暴だったので、クリストフは憤って、歯をきしらせ足を踏み鳴らして、壁に拳固《げんこ》をつきつけた。しかしメルキオルは雀躍《こおどり》していた。大公爵がはいって来て、管弦楽団が国歌を奏して敬意を表したのだった。ジャン・ミシェルは震え声で、孫に最後の世話をやいていた。
序曲がまた始まって、こんどは終りまでやられた。いよいよクリストフの番となった。メルキオルは巧妙に曲目《プログラム》を立てて、息子の妙技と父の妙技とを同時に発揮されるようにしておいた。ピアノとヴァイオリンのための、モーツァルトの奏鳴曲《ソナタ》を、二人で合奏することになっていた。効果を増すために、まずクリストフが一人で舞台へ出ることにきまっていた。人々は彼を舞台の入口に連れてゆき、楽壇の前方にあるピアノを指し示し、なすべきことを最後にも一度言ってきかせ、そして袖《そで》道具の外へ押し出した。
彼は長い前から芝居の広間へは来つけていたから、たいしてびくついてはいなかった。しかし幾百人の眼の前で、舞台の上にただ一人立った時、にわかに気後《きおく》れがして、本能的に後へ退《さが》ろうとした。袖道具の方へふり向いてそこへはいろうとまでした。けれども、そこには父の姿が控えていて、怒った身振りや眼付をしていた。彼はつづけて進み出なければならなかった。そのうえ、もう聴衆から姿を見られていた。彼が進み出るにしたがって、好奇の叫びが起こり、ついで笑い声が起こり、それが次に広まっていった。メルキオルの見当ははずれなかった。子供の服装は望むとおりの効果を現わした。長い髪をし、ジプシーの少年のような色をし、りっぱな紳士のような夜会裳をして、小跨《こまた》におずおず歩いてる小僧が出て来たのを見て、聴衆席では大騒ぎだった。人々はなおよく見るために立上がった。やがて満堂の歓喜となった。それには少しも悪意はこもってはいなかったけれど、ごく気丈な名手をも惘然《ぼうぜん》たらしむるほどのものだった。クリストフは、騒音や眼や自分に向けられてる双眼鏡《グラス》などにおびえきって、できるだけ早くピアノのところへ行こうという考えきりもたなかった。そのピアノは海中の小島のように彼には思われた。頭を下げ、側目《わきめ》もふらず、脚燈《フートライト》に沿うて、急《せ》き込んだ足取りで歩いていった。舞台の真中まで行くと、約束どおり聴衆に挨拶《あいさつ》することもしないで、かえって背中を向け、ピアノに向かってまっすぐに進んでいった。椅子《いす》があまり高すぎたので、それにすわるには父の助けを待たなければならなかっ
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