彼はそこへ駆け寄って、母の膝《ひざ》にすがりついた。母は白い胸掛をつけて、木の匙《さじ》をもっていた。そしてまず、顔を上げて皆に見せるがいいとか、そこにいる人たちに一々今日はと言って握手を求めなさいと言って、ますます彼を困惑さした。彼はそれを承知しなかった。壁の方を向いて、顔を腕の中に隠してしまった。しかしだんだん勇気が出て来て、笑いを含んだ輝いた眼でちょっと覗《のぞ》いては、人に見られるたびにまた首を縮めた。そういうふうにして彼はひそかに人々の様子を窺《うかが》った。母は彼がこれまで見かけたこともないほど、忙しそうなまた厳《おごそ》かな様子をしていた。鍋《なべ》から鍋へと往《い》ったり来たりして、味をみ、意見を述べ、確信ある調子で料理の法を説明していた。普通《なみ》の料理女はそれを畏《かしこま》って聞いていた。母がどんなに人々から尊敬されてるかを見て、また、光り輝いてる金や銅のりっぱな器具で飾られたこの美しい室の中で、母がどんな役目を演じてるかを見て、子供の心は得意の情にみちあふれた。
突然、すべての話し声がやんだ。扉《とびら》が開いた。一人のりっぱな夫人が、硬《かた》い衣摺《きぬず》れの音をたててはいって来た。彼女は疑り深い眼付であたりを見回した。もう若くはなかったが、まだ袖《そで》の広い派手な長衣を着ていた。そして物にさわらないように片手で裳裾《もすそ》を引上げていた。それでもやはり竈《かまど》のそばにやって来て、皿《さら》の中を覗《のぞ》き込んだり、また味をみまでした。少し手を上げると、袖がまくれ落ちて、肱《ひじ》の上まで素肌《すはだ》だった。クリストフはそれを見て、見苦しいようなまた猥《みだ》らなような気がした。いかに冷やかなぞんざいな調子で彼女はルイザに口をきいたか、そしてルイザはいかにへり下った調子で彼女に答えたか! クリストフはそれに驚かされた。彼は見つからないように片隅に身を潜めたが、なんの役にもたたなかった。その小さな児《こ》はだれかと夫人は尋ねた。ルイザはやって来て、彼をとらえて、御覧に入れようとした。顔を隠させまいとして両手を押えた。彼は身をもがいて逃げ出したかったが、こんどはどうしても逆らえないように本能的に感じた。夫人は子供のあわてた顔付を眺めた。そしてすでに母親としての彼女の最初の素振りは、彼にやさしく微笑《ほほえ》みかけることだった
前へ
次へ
全111ページ中34ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング