とだったから。しかし彼女が自分に内密でやってることについては、別に気を悪くしてはいなかった。小さなクリストフの方はまだ、生活の困難ということが少しも分らなかった。自分の意志の拘束となるようにはっきり感ぜられるものは、ただ両親の意志のみであった。しかもそれとて、彼はほとんど思いどおりに放任されていたので、さほど厄介なものではなかった。彼はなんでも思いどおりのことができるためには、ただ大人になることをしか望んではいなかった。人が一歩ごとにぶっつかるあらゆる障害を、彼は想像だもしてはいなかった。とくに大人である自分の両親さえ万事が思いどおりにやれるものではないということを、彼はかつて考えもしなかった。人間のうちには命令する者と命令される者とがあるということを、そしてまた、家の人たちも自分もともに前者に属するのではないということを、彼が初めて瞥見《べっけん》した日、彼の心身は激しく猛《たけ》りたった。それこそ彼の生涯の最初の危機であった。
その日、母は彼にいちばん綺麗《きれい》な服を着せてくれた。もらい物の古着ではあったが、ルイザが丹念に手ぎわよく仕立直したものだった。彼は言われたとおり、母をその働いてる家へ尋ねていった。ただ一人ではいってゆくことを考えると気後《きおく》れがした。一人の給仕が玄関にぶらぶらしていた。彼は子供を引止めて、何しに来たかといたわるような調子で尋ねた。クリストフは顔を赤くして、「クラフト夫人」――言いつけられたとおりの言葉を使って――に会いに来たのだと口籠《くちごも》りながら答えた。
「クラフト夫人だって? なんの用だい、クラフト夫人に?」と給仕は夫人という言葉に皮肉な力をこめて言いつづけた。「お前のお母さんなのかい。そこを上っておいで。廊下の奥の料理場へ行けば、ルイザに会えるよ。」
彼はますます顔を赤らめながら歩いて行った。母がなれなれしくルイザと呼ばれたのを聞いてきまりが悪かった。一種の屈辱を感じた。もうそこを逃げ出して、親しい河岸に駆けてゆき、いつもみずからいろんな話を考えるあの藪《やぶ》の後ろに、はいり込んでしまいたいような気もした。
料理場へ行くと、彼は他の多くの召使どもの中にはいり込んだ。皆は騒々しく囃《はや》したてて彼を迎えた。奥の方の竈《かまど》のそばで、母はやさしいまた多少困ったような様子で、彼に微笑《ほほえ》みかけていた。
前へ
次へ
全111ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング