とんど不動の姿で、現われてくる。そしてはるか遠くには、地平のはての鋼鉄の光のようにして、水の平野が、震える水の一線がある――海が。河はその海へ奔《はし》っている。また海は河へ奔ってるがようである。海は河を吸い寄せる。河は海を慕う。河は海に隠れようとしている……。音楽は渦《うず》巻き、舞踊の麗わしい節奏は狂わしいまでに揺り動く。その勝ち誇った旋風の中に、すべてが巻き込まれて一掃される……。自由な魂が宙をかすめて翔《かけ》る、空気に酔いながら鋭い声を発して空を横ぎる、燕《つばめ》の飛翔《ひしょう》のように。……歓喜、歓喜! もはや何物もない! おう、限りなき幸福!……
 時間は過ぎていった。夕暮になっていた。階段は闇《やみ》に包まれていた。雨のつぶが、河の平らな面《おもて》に丸い輪を描くと、流れが踊りつつそれを運んでいった。時おりは、木の枝が、黒い樹皮が、音もなく通りかかって、過ぎ去っていった。毒蜘蛛は、餌《えさ》を食いあきて、いちばん暗い片|隅《すみ》に引込んでしまった。――そして小さなクリストフは、よごれた蒼白い顔を幸福の色に輝かしながら、いつまでも軒窓の縁にもたれていた。彼は眠っていた。
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     三

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太陽は闇を被《かず》きて現われぬ……
     ――神曲、煉獄の巻、第三十章――
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 我意を折らなければならなかった。痛烈な反抗心を執拗《しつよう》に押し通してはみたが、ついに彼の悪意は打擲《ちょうちゃく》にうち負けてしまった。毎日朝と晩に三時間ずつ、クリストフは責道具の前に引据えられた。注意と不愉快とにたまらなくなり、頬《ほお》や鼻に大粒の涙を流しながら、彼は白や黒の鍵《キイ》の上に小さな赤い手を動かした。音符を間違えることに打ちおろされる定規の下に、またその打擲よりいっそう忌わしい師の喚《わめ》き声の下に、彼の手は寒さに凍えてることがしばしばだった。音楽は嫌《きら》いだと彼は考えていた。それでも熱心に努めていた。その熱心さは、メルキオルを恐《こわ》がってるというせいばかりでもなかった。祖父のある言葉が彼に深い印象を与えていた。祖父は孫が泣くのを見て、重々しい調子で言ってきかした、人間の慰謝と光栄とのために与えられている最高最美の芸術のためになら、多少の苦しみは忍ぶに甲斐《かい》のあることだ
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