ものもあった。クリストフは考えた。「そうだ、こんなに[#「こんなに」に傍点]……こんなに[#「こんなに」に傍点]、私もやがてしよう。」どうしてこんなに[#「こんなに」に傍点]だか、なぜそんなことを言うのか、彼は自分で少しも知らなかった。しかし、そう言わなければならない、それは白日のように明白なことだと、彼は感じていた。海の音が聞こえていた。海はすぐ近くにあって、ただ砂丘の壁で隔てられてるだけだった。その海がどういうものであるか、海が自分に何を望んでいるかは、少しもわからなかった。しかし彼ははっきり意識していた、海はやがて障害をのり越えて高まってくるだろうということを、そして、その時こそは……。その時こそは、素敵だろう、自分はまったく幸福になるだろう。海の音を聞くだけでも、その大きな声の響きに揺られるだけでも、あらゆる屈辱や小さな悲痛などは、ことごとく鎮《しず》められてしまった。それらはやはり悲しいものではあったが、もはや恥ずかしいものでもなく、心を傷つけるものでもなかった。すべてが自然らしく思われ、温和な気にほとんど充ちてるらしく思われた。
 多くは、凡庸《ぼんよう》な音楽がそういう陶酔を彼にもたらした。かかる音楽を書いたのは、憐《あわ》れむべき賤《いや》しい人々であって、彼らの考えていたことはただ、金を得んとすることばかりであり、あるいは、一般に認められた形式に従って、または――独創家たらんがために――形式を無視して、とにかく音符をいっしょによせ集めながら、おのれの生活の空虚の上に幻をうち立てんとすることばかりであった。しかし音響の中には、愚人に取扱われたものの中にさえ、非常な生命の力が潜んでいて、無邪気な魂の中に感激を起こさせることができるものである。おそらくは、愚人の暗示する幻影も、強烈な思想に吹き起こされて人を無理に巻き込む幻影にくらぶれば、いっそう神秘であり自由であろう。なぜなら、いたずらな運動と空虚な饒舌《じょうぜつ》とは、自己観照の精神を煩《わずら》わすことがないから……。
 かくて子供は、皆に忘れられ、すべてを忘れて、ピアノの隅にじっとしていた。――しまいには、蟻が足に這《は》い上がってくるのを不意に感じた。すると、自分は真黒な爪《つめ》をした小さな子供であることを思い出し、両手で足をかかえながら鼻を壁にすりつけてることに気づいた。

 メルキオルが
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