杜松の樹
グリム
中島孤島訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)大昔《おおむかし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二千|年《ねん》も
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(例)[#ここから割り注]
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むかしむかし大昔《おおむかし》、今《いま》から二千|年《ねん》も前《まえ》のこと、一人《ひとり》の金持《かねも》ちがあって、美《うつ》くしい、気立《きだて》の善《い》い、おかみさんを持《も》って居《い》ました。この夫婦《ふうふ》は大層《たいそう》仲《なか》が好《よ》かったが、小児《こども》がないので、どうかして一人《ひとり》ほしいと思《おも》い、おかみさんは、夜《よる》も、昼《ひる》も、一|心《しん》に、小児《こども》の授《さず》かりますようにと祈《いの》っておりましたが、どうしても出来《でき》ませんでした。
さてこの夫婦《ふうふ》の家《うち》の前《まえ》の庭《にわ》に、一|本《ぽん》の杜松《としょう》がありました。或《あ》る日《ひ》、冬《ふゆ》のことでしたが、おかみさんはこの樹《き》の下《した》で、林檎《りんご》の皮《かわ》を剥《む》いていました。剥《む》いてゆくうちに、指《ゆび》を切《き》ったので、雪《ゆき》の上《うえ》へ血《ち》がたれました。([#ここから割り注]*(註)杜松は檜類の喬木で、一に「ねず」又は「むろ」ともいいます[#ここで割り注終わり])
「ああ、」と女《おんな》は深《ふか》い嘆息《ためいき》を吐《つ》いて、目《め》の前《まえ》の血《ち》を眺《なが》めているうちに、急《きゅう》に心細《こころぼそ》くなって、こう言《い》った。「血《ち》のように赤《あか》く、雪《ゆき》のように白《しろ》い小児《こども》が、ひとりあったらねい!」
言《い》ってしまうと、女《おんな》の胸《むね》は急《きゅう》に軽《かる》くなりました。そして確《たし》かに自分《じぶん》の願《ねがい》がとどいたような気《き》がしました。女《おんな》は家《うち》へ入《はい》りました。それから一|月《つき》経《た》つと、雪《ゆき》が消《き》えました。二|月《つき》すると、色々《いろいろ》な物《もの》が青《あお》くなりました。三|月《つき》すると、地《じ》の中《なか》から花《はな》が咲《さ》きました。四|月《つき》すると、木々《きぎ》の梢《こずえ》が青葉《あおば》に包《つつ》まれ、枝《えだ》と枝《えだ》が重《かさ》なり合《あ》って、小鳥《ことり》は森《もり》に谺《こだま》を起《お》こして、木《き》の上《うえ》の花《はな》を散《ち》らすくらいに、歌《うた》い出《だ》しました。五|月《つき》経《た》った時《とき》に、おかみさんは、杜松《ねず》の樹《き》の下《した》へ行《ゆ》きましたが、杜松《としょう》の甘《あま》い香気《かおり》を嚊《か》ぐと、胸《むね》の底《そこ》が躍《おど》り立《た》つような気《き》がして来《き》て、嬉《うれ》しさに我《われ》しらずそこへ膝《ひざ》を突《つ》きました。六|月目《つきめ》が過《す》ぎると、杜松《ねず》の実《み》は堅《かた》く、肉《にく》づいて来《き》ましたが、女《おんな》はただ静《じっ》として居《い》ました。七|月《つき》になると、女《おんな》は杜松《ねず》の実《み》を落《おと》して、しきりに食《た》べました。するとだんだん気《き》がふさいで、病気《びょうき》になりました。それから八|月《つき》経《た》った時《とき》に、女《おんな》は夫《おっと》の所《ところ》へ行《い》って、泣《な》きながら、こう言《い》いました。
「もしかわたしが死《し》んだら、あの杜松《としょう》の根元《ねもと》へ埋《う》めて下《くだ》さいね。」
これですっかり安心《あんしん》して、嬉《うれ》しそうにしているうちに、九|月《つき》が過《す》ぎて、十|月目《つきめ》になって、女《おんな》は雪《ゆき》のように白《しろ》く、血《ち》のように赤《あか》い小児《こども》を生《う》みました。それを見《み》ると、女《おんな》はあんまり喜《よろこ》んで、とうとう死《し》んでしまいました。
夫《おっと》は女《おんな》を杜松《としょう》の根元《ねもと》へ埋《う》めました。そしてその時《とき》には、大変《たいへん》に泣《な》きましたが、時《とき》が経《た》つと、悲《かなし》みもだんだん薄《うす》くなりました。それから暫《しばら》くすると、男《おとこ》はすっかり諦《あきら》めて、泣《な》くのをやめました。それから暫《しばら》くして、男《おとこ》は別《べつ》なおかみさんをもらいました。
二|度目《どめ》のおかみさんには、女《おんな》の子《こ》が生《う》まれました。初《はじめ》のおかみさんの子《こ》は、血《ち》のように赤《あか》く、雪《ゆき》のように白《しろ》い男《おとこ》の子《こ》でした。おかみさんは自分《じぶん》の娘《むすめ》を見《み》ると、可愛《かわゆ》くって、可愛《かわゆ》くって、たまらないほどでしたが、この小《ちい》さな男《おとこ》の子《こ》を見《み》るたんびに、いやな気持《きもち》になりました。どうかして夫《おっと》の財産《ざいさん》を残《のこ》らず自分《じぶん》の娘《むすめ》にやりたいものだが、それには、この男《おとこ》の子《こ》が邪魔《じゃま》になる、というような考《かんが》えが、始終《しじゅう》女《おんな》の心《こころ》をはなれませんでした。それでおかみさんは、だんだん鬼《おに》のような心《こころ》になって、いつもこの子《こ》を目《め》の敵《かたき》にして、打《ぶ》ったり、敲《たた》いたり、家中《うちじゅう》を追廻《おいまわ》したりするので、かわいそうな小児《こども》は、始終《しょっちゅう》びくびくして、学校《がっこう》から帰《かえ》っても、家《うち》にはおちついていられないくらいでした。
或《あ》る時《とき》、おかみさんが、二|階《かい》の小部屋《こべや》へはいっていると、女《おんな》の子《こ》もついて来《き》て、こう言《い》いました。
「母《かあ》さん、林檎《りんご》を頂戴《ちょうだい》。」
「あいよ。」とおかあさんが言《い》って、函《はこ》の中《なか》から美麗《きれい》な林檎《りんご》を出《だ》して、女《おんな》の子《こ》にやりました。その函《はこ》には大《おお》きな、重《おも》い蓋《ふた》と頑固《がんこ》な鉄《てつ》の錠《じょう》が、ついていました。
「母《かあ》さん、」と女《おんな》の子《こ》が言《い》った。「兄《にい》さんにも、一つあげないこと?」
おかあさんは機嫌《きげん》をわるくしたが、それでも何気《なにげ》なしに、こういいました。
「あいよ、学校《がっこう》から帰《かえ》って来《き》たらね。」
そして男《おとこ》の子《こ》が帰《かえ》って来《く》るのを窓《まど》から見《み》ると、急《きゅう》に悪魔《あくま》が心《こころ》の中《なか》へはいってでも来《き》たように、女《おんな》の子《こ》の持《も》っている林檎《りんご》をひったくって、
「兄《にい》さんより先《さき》に食《た》べるんじゃない。」
と言《い》いながら、林檎《りんご》を函《はこ》の中《なか》へ投込《なげこ》んで、蓋《ふた》をしてしまいました。
そこへ男《おとこ》の子《こ》が帰《かえ》って来《き》て、扉《と》の所《ところ》まで来《く》ると、悪魔《あくま》のついた継母《ままはは》は、わざと優《やさ》しい声《こえ》で、
「坊《ぼう》や、林檎《りんご》をあげようか?」といって、じろりと男《おとこ》の子《こ》の顔《かお》を見《み》ました。
「母《かあ》さん、」と男《おとこ》の子《こ》が言《い》った。「何《なん》て顔《かお》してるの! ええ、林檎《りんご》を下《くだ》さい。」
「じゃア、一しょにおいで!」といって、継母《ままはは》は部屋《へや》へはいって、函《はこ》の蓋《ふた》を持上《もちあげ》げながら、「さア自分《じぶん》で一個《ひとつ》お取《と》りなさい。」
こういわれて、男《おとこ》の子《こ》が函《はこ》の中《なか》へ頭《あたま》を突込《つっこ》んだ途端《とたん》に、ガタンと蓋《ふた》を落《おと》したので、小児《こども》の頭《あたま》はころりととれて、赤《あか》い林檎《りんご》の中《なか》へ落《お》ちました。それを見《み》ると、継母《ままはは》は急《きゅう》に恐《おそ》ろしくなって、「どうしたら、脱《のが》れられるだろう?」と思《おも》いました。そこで継母《ままはは》は、自分《じぶん》の居室《いま》にある箪笥《たんす》のところに行《い》って、手近《てぢか》の抽斗《ひきだし》から、白《しろ》い手巾《はんけち》を出《だ》して来《き》て、頭《あたま》を頸《くび》に密着《くっつ》けた上《うえ》を、ぐるぐると巻《ま》いて、傷《きず》の分《わか》らないようにし、そして手《て》へ林檎《りんご》を持《も》たせて、男《おとこ》の子《こ》を入口《いりぐち》の椅子《いす》の上《うえ》へ坐《すわ》らせておきました。
間《ま》もなく、女《おんな》の子《こ》のマリちゃんが、今《いま》ちょうど、台所《だいどころ》で、炉《ろ》の前《まえ》に立《た》って、沸立《にえた》った鍋《なべ》をかき廻《まわ》しているお母《かあ》さんのそばへ来《き》ました。
「母《かあ》さん、」とマリちゃんが言《い》った。「兄《にい》さんは扉《と》の前《まえ》に坐《すわ》って、真白《まっしろ》なお顔《かお》をして、林檎《りんご》を手《て》に持《も》っているのよ。わたしがその林檎《りんご》を頂戴《ちょうだい》と言《い》っても、何《なん》とも言《い》わないんですもの、わたし怖《こわ》くなッちゃったわ!」
「もう一|遍《ぺん》行《い》ってごらん。」とお母《かあ》さんが言《い》った。「そして返事《へんじ》をしなかったら、横面《よこッつら》を張《は》っておやり。」
そこでマリちゃんは又《また》行《い》って、
「兄《にい》さん、その林檎《りんご》を頂戴《ちょうだい》。」
といいましたが、兄《にい》さんは何《なん》とも言《い》わないので、女《おんな》の子《こ》が横面《よこッつら》を張《は》ると、頭《あたま》がころりと落《お》ちました。それを見《み》ると、女《おんな》の子《こ》は恐《こわ》くなって、泣《な》き出《だ》しました。そして泣《な》きながら、お母《かあ》さんの所《ところ》へ駈《か》けて行《い》って、こう言《い》いました。
「ねえ、母《かあ》さん! わたし兄《にい》さんの頭《あたま》を打《う》って、落《おッこと》しちまったの!」
そう言《い》って、女《おんな》の子《こ》は泣《な》いて、泣《な》いて、いつまでもだまりませんでした。
「マリちゃん!」とお母《かあ》さんが言《い》った。「お前《まえ》、何《なん》でそんなことをしたの! まア、いいから、黙《だま》って、誰《だれ》にも知《し》れないようにしておいでなさいよ。出来《でき》ちまったことは、もう取返《とりかえ》しがつかないんだからね。あの子《こ》はスープにでもしちまいましょうよ。」
こういって、お母《かあ》さんは小《ちい》さな男《おとこ》の子《こ》を持《も》って来《き》て、ばらばらに切《き》りはなして、お鍋《なべ》へぶちこんで、ぐつぐつ煮《に》てスープをこしらえました。マリちゃんはそのそばで、泣《な》いて、泣《な》いて、泣《な》きとおしましたが、涙《なみだ》はみんなお鍋《なべ》のなかへ落《お》ちて、その上《うえ》塩《しお》をいれなくてもいいくらいでした。お父《とう》さんが帰《かえ》って来《き》て、食卓《テーブル》の前《まえ》へ坐《すわ》ると、
「あの子《こ》は何処《どこ》へ行《い》ったの?」と尋《たず》ねました。
すると母親《ははおや》は、大《おお》きな、大《おお》きな、お皿《さら》へ黒《くろ》いスープを盛《も》って、運《はこ》んで来《き》ました。マリちゃんはまだ悲《かな》しくって、頭《あたま》もあげず
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