て、ただ彼女の指のあいだに手紙が残されてあったのに気がついたので、彼女は急いでそれを手袋のなかに隠してしまった。
ドライヴしていても、彼女にはもう何も見えなかった。聞こえなかった。馬車で散歩に出たときには「今会ったかたはどなただ」とか、「この橋の名はなんというのだ」とか、「あの掲示板にはなんと書いてある」とか、絶えず訊《き》くのが夫人の習慣になっていたが、なにしろ場合が場合であるので、きょうに限ってリザヴェッタはとかくに辻褄《つじつま》の合わないような返事ばかりするので、夫人はしまいに怒り出した。
「おまえ、どうかしていますね」と、夫人は呶鳴《どな》った。「おまえ、気は確かかえ。どうしたのです。わたしの言うことが聞こえないのですか。それとも分からないとでもお言いなのですか。お蔭さまで、わたしはまだ正気でいるし、呂律《ろれつ》もちゃんと廻っているのですよ」
リザヴェッタには夫人の言葉がよく聞こえなかった。邸《やしき》へ帰ると、彼女は自分の部屋へかけ込んで、手袋から彼の手紙を引き出すと、手紙は密封してなかった。読んでみると、それはドイツの小説の一字一句を訳して、そのままに引用した優しい
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