紙幣をポケットに捻《ね》じ込んだ。
 しかも翌あさ遅く眼をさましたとき、彼は空想の富を失ったのにがっかりしながら街へ出ると、いつの間にか伯爵夫人の邸の前へ来た。ある未知《みち》の力がそこへ彼を引き寄せたともいえるのである。彼は立ち停まって窓を見上げると、一つの窓から房ふさとした黒い髪の頭が見えた。その頭はおそらく書物か刺繍台の上にうつむいていたのであろう。と思う間に、その頭はもたげられ、生き生きとした顔と黒い二つのひとみが、ヘルマンの眼にはいった。
 彼の運命はこの瞬間に決められてしまった。

       三

 リザヴェッタ・イヴァノヴナは彼女の帽子と外套をぬぐか脱がないうちに、伯爵夫人は彼女を呼んで、ふたたび馬車の支度をするように命じたので、馬車は玄関の前に牽《ひ》き出された。そうして、夫人と彼女とはおのおのその席に着こうとした。二人の馭者が夫人を扶《たす》けて馬車へ入れようとする時、リザヴェッタはかの工兵士官が馬車の後《うしろ》にぴったりと身を寄せて立っているのを見た。――彼は彼女の手を掴《つか》んだ。あっと驚いて、リザヴェッタはどぎまぎしていると、次の瞬間にはもうその姿は消え
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