がって寝てしまいます。それですから、十一時半ごろにおいでください。階段をまっすぐに昇っていらっしゃい。もし控えの間で誰かにお逢《あ》いでしたらば、伯爵夫人がいらっしゃるかとおたずねなさい。きっといらっしゃらないと言われましょうから、その時は仕方がございませんからいったん外出なすって下さい。十中の八九までは誰にもお逢いなさらないと存じます。――召使いたちがお邸におりましても、みんな一つ部屋に集まっていると思います。――次の間をおいでになったらば、左へお曲がりなすって、伯爵夫人の寝室までまっすぐにおいで下さると、寝室の衝立《ついたて》のうしろに二つのドアがございます。その右のドアの奥は、伯爵夫人がかつておはいりになったことのない私室になっておりますが、左のドアをおあけになると廊下がありまして、さらに螺旋形《らせんがた》の階段をお昇りになると、わたくしの部屋になっております」
 ヘルマンは指定された時刻の来るあいだ、虎のようにからだを顫《ふる》わせていた。夜の十時ごろ、彼はすでに伯爵夫人邸の前へ行っていた。天気はひどく悪かった。風は非常に激しく吹いて、雨まじりの雪は大きい花びらを飛ばしていた。街燈は暗く、街は鎮《しず》まりかえっていた。憐れな老馬に牽《ひ》かせてゆく橇《そり》の人が、こんな夜に迷っている通行人を怪しむように見返りながら通った。ヘルマンは外套で深く包まれていたので、風も雪も身に沁みなかった。
 やっとのことで、伯爵夫人の馬車は玄関さきへ牽《ひ》き出された。黒い毛皮の外套に包まれた、腰のまがった老夫人を、二人の馭者が抱えるようにして連れ出すと、すぐにそのあとから、温かそうな外套をきて、頭に新しい花の環を頂いたリザヴェッタが附き添って出て来た。馬車のドアがしまって、車は柔らかい雪の上を静かに馳《は》せ去ると、門番は玄関のドアをしめて、窓は暗くなった。
 ヘルマンは人のいない邸の近くを往きつ戻りつしていたが、とうとう街燈の下に立ちどまって時計を見ると、十一時を二十分過ぎていた。ちょうど十一時半になったときに、ヘルマンは邸の石段を昇って照り輝いている廊下を通ると、そこに番人は見えなかった。彼は急いで階段をあがって控え室のドアをあけると、一人の侍者がランプのそばで、古風な椅子に腰をかけながら眠っていたので、ヘルマンは跫音《あしおと》を忍ばせながらそのそばを通り過ぎた。応接間も食堂もまっ暗であったが、控え室のランプの光りが幽《かす》かながらもそこまで洩れていた。
 ヘルマンは伯爵夫人の寝室まで来た。古い偶像でいっぱいになっている神龕《ずし》には、金色のランプがともっていた。色のあせたふっくらした椅子と柔らかそうなクッションを置いた長椅子が、陰気ではあるがいかにも調和よく、部屋の中に二つずつ並んでいて、壁にはシナの絹が懸かっていた。一方の壁には、パリでルブラン夫人の描いた二つの肖像画の額が懸かっていたが、一枚はどっしりとした赭《あか》ら顔の四十ぐらいの男で、派手な緑色の礼服の胸に勲章を一つ下げていた。他の一枚は美しい妙齢の婦人で、鉤鼻《かぎばな》で、ひたいの髪を巻いて、髪粉をつけた髪には薔薇の花が挿してあった。隅ずみには磁器製の男の牧人と女の牧人や、有名なレフロイの工場製の食堂用時計や、紙匣《はりぬきばこ》や、球転《ルーレット》(一種の賭博)の道具をはじめとして、モンゴルフィエールの軽気球や、メスメルの磁石が世間を騒がせた前世紀の終わりにはやった、婦人の娯楽用の玩具《おもちゃ》がたくさんにならべてあった。
 ヘルマンは衝立《ついたて》のうしろへ忍んで行った。そのうしろには一つの小さい寝台があり、右の方には私室のドア、左の方には廊下へ出るドアがあった。そこで、彼は左の方のドアをあけると、果たして彼女の部屋へ達している小さい螺旋形の階段が見えた。――しかも彼は、引っ返してまっ暗な私室へはいって行った。
 時はしずかに過ぎた。邸内は寂《せき》として鎮まり返っていた。応接間の時計が十二時を打つと、その音が部屋から部屋へと反響して、やがてまた森《しん》となってしまった。ヘルマンは火のないストーブに凭《よ》りながら立っていた。危険ではあるが、避け難き計画を決心した人のように、その心臓は規則正しく動悸《どうき》を打って、彼は落ちつき払っていた。
 午前一時が鳴った。それから二時を打ったころ、彼は馬車のわだちの音を遠く聞いたので、われにもあらで興奮を覚えた。やがて馬車はだんだんに近づいて停まった。馬車の踏み段をおろす音がきこえた。邸の中がにわかにざわめいて、召使いたちが上を下へと走り廻りながら呼びかわす声が入り乱れてきこえたが、そのうちにすべての部屋には明かりがとぼされた。三人の古風な寝室係の女中が寝室へはいって来ると、間もなく伯爵夫人があらわれて
前へ 次へ
全15ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
プーシキン アレクサンドル・セルゲーヴィチ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング