人はあまりにも年をとり過ぎていたので、彼女の死に心を打たれたものもなく、一族の人たちもとうから彼女を死んだ者扱いにしていたのである。
 ある有名な僧侶が葬式の説教をはじめた。彼は単純で、しかも哀憐《あいれん》の情を起こさせるような言葉で、長いあいだキリスト教信者としての死を静かに念じていた彼女の平和な永眠を述べた。
「ついに死の女神は、信仰ふかき心をもってあの世の夫に一身を捧げていた彼女をお迎えなされました」と、彼は言った。
 法会《ほうえ》はふかい沈黙のうちに終わった。一族の人びとは死骸に永別を告げるために進んでゆくと、そのあとから大勢《おおぜい》の会葬者もつづいて、多年自分たちのふまじめな娯楽の関係者であった彼女に最後の敬意を表した。彼らのうしろに伯爵夫人の邸《やしき》の者どもが続いた。その最後に伯爵夫人と同年輩ぐらいの老婆が行った。彼女は二人の女に手を取られて、もう老いぼれて地にひざまずくだけの力もないので、ただ二、三滴の涙を流しながら女主人の冷たい手に接吻した。
 ヘルマンも柩のある所へ行こうと思った。彼は冷たい石の上にひざまずいて、しばらくそのままにしていたが、やがて伯爵夫人の死に顔と同じように真《ま》っ蒼《さお》になって起《た》ちあがると、葬龕《ずし》の階段を昇って死骸の上に身をかがめた――。その途端《とたん》に、死んでいる夫人が彼をあざけるようにじろりと睨《にら》むとともに、一つの眼で何か目配せをしたように見えた。ヘルマンは思わず後ずさりするはずみに、足を踏みはずして地に倒れた。二、三人が飛んで来て、彼を引き起こしてくれたが、それと同時に、失神したリザヴェッタ・イヴァノヴナも教会の玄関へ運ばれて行った。
 この出来事がすこしのあいだ、陰鬱な葬儀の荘厳《そうごん》をみだした。一般会葬者のあいだからも低い呟《つぶや》き声が起こって来た。背丈《せい》の高い、痩せた男で、亡き人の親戚であるという侍従職がそばに立っている英国人の耳もとで「あの青年士官は伯爵夫人の私生児《しせいじ》ですよ」とささやくと、その英国人はどうでもいいといった調子で、「へえ!」と答えていた。
 その日のヘルマンは終日《しゅうじつ》、不思議に興奮していた。場末の料理屋へ行って、常になく彼はしたたかに酒をあおって、内心の動揺をぬぐい去ろうとしたが、酒はただいたずらに彼の空想を刺戟するばかりであ
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