、死んだ者のようにヴォルテール時代の臂掛《ひじか》け椅子に腰を落とした。
ヘルマンは隙間《すきま》から覗《のぞ》いていると、リザヴェッタ・イヴァノヴナが彼のすぐそばを通った。彼女が螺旋形の階段を急いで昇ってゆく跫音を聞いた刹那、彼の心臓は良心の苛責《かしゃく》といったようなもののためにちくり[#「ちくり」に傍点]と刺されるような気もしたが、そんな感動はすぐ消えて、彼の心臓はまたもとのように規則正しく動悸を打っていた。
伯爵夫人は姿見の前で着物をぬぎ始めた。それから、薔薇《ばら》の花で飾った帽子を取って、髪粉を塗った仮髪《かつら》をきちんと刈ってある白髪《しらが》からはずすと、髪針《ヘヤピン》が彼女の周囲の床にばらばらと散った。銀糸で縫いをしてある黄いろい繻子《しゅす》の着物は、彼女の脾《しび》れている足もとへ落ちた。
ヘルマンは彼女のお化粧の好ましからぬ秘密を残らず見とどけた。夫人はようように夜の帽子をかぶって、寝衣《ねまき》を着たが、こうした服装《みなり》のほうが年相応によく似合うので、彼女はそんなに忌《いや》らしくも、醜《みにく》くもなくなった。
普通のすべての年寄りのように、夫人は眠られないので困っていた。着物を着替えてから、彼女は窓ぎわのヴォルテール時代の臂掛け椅子に腰をかけると、召使いを下がらせた。蝋燭を消してしまったので、寝室にはただ一つのランプだけがともっていた。夫人は真っ黄と見えるような顔をして、締まりのない唇《くち》をもぐもぐさせながら、体をあちらこちらへ揺すぶっていた。彼女のどんよりした眼は心の空虚《うつろ》をあらわし、また彼女が体を揺すぶっているのは自己の意志で動かしているのではなく、神経作用の結果であることを誰でも考えるであろう。
突然この死人のような顔に、なんとも言いようのない表情があらわれて、唇の顫《ふる》えも止まり、眼も活気づいて来た。夫人の前に一人の見知らぬ男が突っ立っていたからであった。
「びっくりなさらないで下さい。どうぞ、お驚きなさらないで下さい」と、彼は低いながらもしっかりした声で言った。「わたくしはあなたに危害を加える意志は少しもございません。ただ、あなたにお願いがあって参りました」
夫人は彼の言葉がまったく聞こえないかのように、黙って彼を見詰めていた。ヘルマンはこの女は聾《つんぼ》だと思って、その耳の方へからだ
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