ネくなつてしまつたやうに思はれた。わしは神聖な使命を充す事から生れる幸福を味ふ事が出来なかつた。わしの思想は遠く漂つて、唯クラリモンドの語のみがわれ知らず繰返へす畳句のやうに、常にわしの唇に上るのである。おゝ、兄弟よ、よく之を考へて見てくれるがいゝ。唯一度、眼をあげて一人の女を見た為に、一見些細な過失の為に、わしは数年間、最もみじめな苦痛の犠牲になつてゐたのだ。そしてわしの生活の幸福は永久に失はれてしまつたのだ。
わしは、絶えずわしの心に繰りかへされた勝利と敗北を、しかも常に一層恐しい堕落にわしを陥れた勝利と敗北を此上話すのは止めようと思ふ。そして直にわしの物語の事実に話を進めようと思ふ。或夜、わしの戸口の呼鈴が、長く荒々しく鳴らされた。家事まかなひの老婆が起きて、戸を開けると、見知らぬ人が立つてゐる。バルバラ(老婆の名)の角燈の光の中に、青銅のやうな顔をして、立派な外国の装ひをした男の姿が、帯に短刀をさげて、佇んでゐるのである。老婆は、初め恐しい気がした。が、其見知らぬ人は、彼女が安心するやうに用事を告げて、わしの奉じてゐる神聖な職務に関して、至急わしに会ひたいと云ふことを述べた。
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