相馬泰三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)嵐《あらし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)暫時|可笑《をか》しさ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)きちん[#「きちん」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ばら/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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       一

 そとは嵐《あらし》である。高い梢《こずゑ》で枝と枝との騒がしくかち合ふ音が聞える。ばら/\と時折り窓をかすめて落葉が飛ぶ。だが、それ等は決して、老医師の静かな物思ひのさまたげにはならなかつた。天井の高い、ガランとした広い部屋の中の空気はヒヤ/\と可成《かなり》冷たかつたが、彼は大きな安楽椅子《あんらくいす》に身を深く埋めてゐたから、それも平気であつた。それに物思ひと云つても、それは彼のこれまでの忙はしい生活に附きまとうてゐた様な、そんな種類のものとは全く趣きを異にした極《きは》めて呑気《のんき》な、責任などと云ふものから全く離れたものであつた。
 膝《ひざ》の上にきちん[#「きちん」に傍点]と手を重ねて、半ば眼を閉ぢてうつら/\と取とめもなく思ひに耽《ふけ》つてゐるうちに急に彼の口元から頬《ほゝ》のあたりへかけて軽い笑ひが浮んで来て、やがて眼がぱちつと開いた。そして暫時|可笑《をか》しさを口の中にこらへて居たが、こらへ兼ねてとう/\噴《ふ》き出して仕舞つた。
 それはかうである。ついこの二週間ばかり前のはなし、自分の第三の結婚式に臨む為めに上京して、その結婚披露の饗宴《きやうえん》の卓上での出来事、――それが、今何かの関係からふと頭の中に浮んで来たのである。
 …………彼は、自分の前に運ばれて来た一片の鳥肉を食べようと思つて、覚束《おぼつか》ない、極めて不調法の手附きで、しかも滑稽《こつけい》な程《ほど》真面目《まじめ》な顔附をしてカチヤン/\と使ひつけないナイフを動かしてゐると、どうした機《はず》みにか余計な力がその手に這入《はひ》つて、はつと思ふ間もあらせず、所もあらうにそれが彼の隣にゐた花嫁さんのパンの皿の中へ飛び込んで仕舞つたものだ……
 それは何時《いつ》までもをかしかつた。しかし又老医師は考へた、自分は自分の老後にこの様な笑ひが自分の身の上に来ようなどとは、これまでにつひぞ思つて見た事さへなかつた。全く予想外な事なのであつた。自分にはこんな呑気な、伸々とした、楽な時間は一度も与へられずに生涯を終るものとのみ独《ひと》りで定《き》めてゐた。
 自分は選ばれなかつたのだ、かうした星の下に生れて来たのだ、半ばこんな風にも諦《あきら》めて居た。
 彼には男四人女四人、都合八人の子供がある。内気な、正直な彼にはこれ等の八人の子供の父であると云ふ丈《だけ》でも、単純な意味で自分の為めの生活なんて事は思ひもよらないのであつた。彼は自分の最も働き盛りの殆《ほと》んど全《すべ》ての歳月と精力とをその子供等の教育費や、それから娘たちの嫁入りの仕度《したく》の為めに費さなければならなかつた。

       二

 秋ももう半ばを過ぎ、このあたりではめつきり寒気が加はり、人の吐き出す息がはつきりと白く見えるやうになつてからの或《あ》るからつ[#「からつ」に傍点]と晴れ渡つた朝、大勢の人足によつて、二百本あまりの見事な小松が老医師の裏の畑地へ運び込まれた。その日は老医師も朝早くから庭に出て、下男の権爺と二人で人足共の監督をしたりした。
 その翌日から急に老医師の家は、ごた/\賑《にぎや》かに取りこむやうになつた、植木屋が毎日つめかける、人足が来る、石屋が来る、老医師の考では、つまり自分の閑散な老後を庭いぢりでもして暮らさうといふのであつた。彼がこれを選んだのは、これがまあ自分の手近な事の中で一番清らかな且つ静かな事であると考へたからである。
 家の前の、半町歩《はんちやうぶ》ばかりの桑畑をつぶして庭を拡げた。
 植木屋は色々の木を色々に取まぜ、或所へは谷合のやうな趣きをとり、或所へはまた築山《つきやま》などを拵《こしら》へたりした方が、と勧めてみたが、主人はそんな風な事にはあまり興味を持たなかつた。出来るならば、自分の庭全体を一つの大きな松林にしたいと云ふ様な考へをもつてゐた。そして植木屋の云ふのとは反対に今まであつた木も松でないものはなるべく之《これ》を取のぞくやうにした。
 そのうちに朝な/\霜がおくやうになつた。掘りかへしたボソ/\した土へ霜柱が立つて、その辺に捨置いてある鍬《くは》の柄のやうなものにまで真白に霜がおき、そして松のチカ/\ととがつた針のやうな葉の一本々々にも白銀の粉でもふりかけたやうに美しく霜が光るのである。老医師は毎朝早く起きてかうした霜の庭をながめるのが非常に楽しみであつた。小松の高さはそれでも大抵人間の背丈《せたけ》よりは高かつた。中には人並よりは少し背丈の低い老医師とその頂が丁度すれ/\位のもあり、極稀《ごくまれ》にはそれより低いのもあつた。彼はこんな木の前へと立つと、
「早くもつと大きくなれ、みんなに負けない様にしないといけないぞ。」
 こんな事をつい口に出して云つたりした。そして小犬でも愛する様にしてそれ等の小松を可愛がつた。
 その後、又百本ばかり買ひ込んだ。そのうちに霙《みぞれ》が降りつゞき、やがて雪がちら/\降り出した。さうすると、又根を囲つてやるんで一しきり忙しくなつた。
 やがて雪が降りつもつて、庭中を蔽《おほ》うて仕舞つた。其《その》小松の緑は真白の雪の中に一層愛らしく美しく見えた。

       三

 十二月の中旬。彼の第四男が、勤めてゐる会社の用で英国へやられた。それに少し遅れて第二女の縁付先から無恙《つゝがなく》男子|分娩《ぶんべん》といふ手紙を受取つた。この二ツの出来事の外はこれと云ふ程の事も無くてこの冬は過ぎた。以上の二ツの出来事は何《いづ》れも彼にとつては言葉には言ひ表はせない程うれしい事であつた。何れも半ヶ年ばかり前から分つてゐた事であつたが、愈々《いよ/\》かうなつてみねば多少の心配もあつたので、殊《こと》に第四男の文夫の事に就《つ》いては、これでこそどうやらあの子の出世の道もそろ/\開かれたと云ふものだ。こんな風に考へると、これでやうやく長い/\間の自分の重荷が本当にすつかりとれた様に感ぜられるのであつた。
 春風が暖かく吹いて、黒い土が久方ぶりに表はれて来た。さうすると又人足を呼びあつめて今度は松の木の下、庭一面に青い芝生《しばふ》を敷きつめる事に取りかゝつた。
 小松共は手入れが親切だつたので一本として枯れたのはなかつた。皆元気よく春を迎へて新たなる生長を営みはじめた。
 やがて枝々の先きが柔かく膨《ふく》れて来て、すーツと新芽が延び出した。そしてその根元の処《ところ》へ小さな淡褐色《たんかつしよく》の蕾《つぼみ》が幾つも群がつて現はれた。
 とかくするうちに松の花の黄ろい花粉が、ぽか/\と吹く風と共に烟《けむり》のやうにあたりに散るやうになつた。最初老医師は庭の隅々《すみ/″\》や置石の陰やに黄ろい粉のやうなもののあるのを見て何だらうとのみ思うてゐた。そしてそれが皆松の花粉であるといふ事を知つた時に、それを親しく指先につけてみたりして興がつた。

       四

 彼はその秋にまた、裏の畑を半町歩ばかりつぶしてそこへ小松を植ゑた。その翌年にも又小松を百本ばかり植ゑた。こんな事をしてゐるうちに、第一年に植ゑた小松はもうその当時の高さの二倍にも三倍にも延びて行つた。風が吹けば一人前に蕭々《せう/\》として鳴るやうになつた。
 そしてそれにつれて老医師の考へもこの頃では大分最初と変つてゐた。彼はこの松林を只《たゞ》庭として賞《め》でようなどと云ふ考からは遠く離れてゐた、彼は誰にもそんな事は口外したことはないが、心の中ではかう思うてゐるのである、自分はこの松林の中へどこか自分の一番気に入つた所を選んで、そこへ自分の墓をたてよう、真白ろの大理石で墓をたて、その下に心静かに休みたい。永久に。――彼はこの頃|夜更《よふ》けて、物静かに鳴り渡る松風の音を聞きながら、あの下に、あゝあの下に、かう思ふのが何よりの楽しみであつた。冬になれば広い松林の上へ真白ろな雪が降るであらう。そして、この林の木がもつと/\大きくなつて行つたら――そんな遠い後の事も思うてみた。或時は又、彼の頭の中でその真白な墓の数が幾つにも殖《ふ》えた、自分の妻と、自分の子供達の数だけの墓を列《なら》べて考へたりもした。そしていつも最後には松風の音で自分の空想を句切るのが常であつた。

       五

 それから又八九年|経《た》つた。老医師の頭には真白な毛が過半を占めるやうになつた。今こそ彼には何の不足もなかつた。自分の子達は何れも人並すぐれて立派な出世を遂げ、幸福な内に益々《ます/\》その進むべき道に発展してゐる。可愛い孫の数も十位を以て数へなければならない程に増《ふ》えた。そして松の木も今は皆見事に大きくなり、梢《こずゑ》の方に赤い肌《はだ》を見せたりして仰ぎ見るばかりに堂々たるものとなつた。
 自分の墓を立てる処もちやんと定《き》まつてゐる。真白な大理石の可愛らしい、美しい墓石もちやんと準備が出来てゐる、墓に関してのすべての遺言状も何遍となく浄書し直して、自分の文庫の中に丁寧に蔵《しま》はれてある。
 彼は毎日庭の掃除をしたりして、只管《ひたすら》死病の自分に来るのを静かに待つてゐるのであつた。彼にとつては、かの物静かな松風の音は今は何よりも偉大な慰藉《ゐしや》であつた。そして何よりも強い憧《あこが》れであつた。あの下に、あゝ、あの下に。

       六

 ある日、彼はいつものやうに庭へ出て、自分の墓を立てる所に選んだ松の木の下にしやがんで、今更のやうに自分の松林の美しいのを眺《なが》めてゐた。頬白《ほゝじろ》がいゝ声で近くの松の梢に囀《さへ》づつてゐた。午後の赤々とした緩《ゆる》やかな日が、松葉を洩《も》れて彼の膝のあたりに落ちてゐた。
 すると彼はそこにしやがんだ儘《まゝ》、我にもあらずいつか気が遠くなつてうと/\と眠つて仕舞つた。
 …松風が物静かに自分の頭の上に吹いてゐた。どうやら自分はもう墓の下にゐるらしい。だがあたりはよく見える。自分は俯向《うつむ》いて何か深く瞑想《めいさう》に耽《ふけ》つてゐるのであつた。と、頭の上で何か、遂《つひ》ぞこの数年間に聞いた事のない、あるあわたゞしい騒擾《さうぜう》の音がしてゐるのに気が附いた。そしてふと頭を揚げてみると、こは何事であらう。四囲の松の木が皆真赤に枯れてゐる。驚ろいてなほ遠くを眺めると、ああ、自分の松林の外囲に思ひがけもない広い/\松原が、果てしもなく連なつてゐて、そしてそれが皆救ふ事の出来ない全くの絶望を以て、真赤に枯れてゐるではないか。それにしても何故《なぜ》こんなに醜く真赤に枯れたのであらう。あまりの事に我を忘れて立ちあがらうとすると、夢はさめた。全身心持悪るくびつしよりと冷汗をかいてゐる。暫《しば》らく気を失つた様になつて、只《たゞ》茫然《ばうぜん》としてゐたが、我にかへつて四囲を見渡せば、我が松林は今や夕日を受けて、その緑は常にもまして美しく眺められた。そして頬白は矢張、遠くへは去らずどこか近くの松の枝で囀つてゐる。
 ――夢だつたのだ。
 と強く心にも打ち消し、口に出しても云つた、が何故か胸のさわぎはいつまでも静まらなかつた。
 と、それから四五日して夜、又、夢に、…松風がごーつと悲しく吹き渡り、そしてそれから広い/\松原の醜く真赤に枯れた状《さま》がまざ/\と彼の目の前に現はれて来るのであつた。
 ――夢なのだ。
 彼は何かを強く追ひのける様にかう叫んだ。
 しかしこの夢はその後、幾度も/\彼の眠りに現はれて、執《しふ》ねくも彼を悩まし続けて行くのであつた。
[#地から2字上げ](大正元年九月作)




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