松風の音は今は何よりも偉大な慰藉《ゐしや》であつた。そして何よりも強い憧《あこが》れであつた。あの下に、あゝ、あの下に。
六
ある日、彼はいつものやうに庭へ出て、自分の墓を立てる所に選んだ松の木の下にしやがんで、今更のやうに自分の松林の美しいのを眺《なが》めてゐた。頬白《ほゝじろ》がいゝ声で近くの松の梢に囀《さへ》づつてゐた。午後の赤々とした緩《ゆる》やかな日が、松葉を洩《も》れて彼の膝のあたりに落ちてゐた。
すると彼はそこにしやがんだ儘《まゝ》、我にもあらずいつか気が遠くなつてうと/\と眠つて仕舞つた。
…松風が物静かに自分の頭の上に吹いてゐた。どうやら自分はもう墓の下にゐるらしい。だがあたりはよく見える。自分は俯向《うつむ》いて何か深く瞑想《めいさう》に耽《ふけ》つてゐるのであつた。と、頭の上で何か、遂《つひ》ぞこの数年間に聞いた事のない、あるあわたゞしい騒擾《さうぜう》の音がしてゐるのに気が附いた。そしてふと頭を揚げてみると、こは何事であらう。四囲の松の木が皆真赤に枯れてゐる。驚ろいてなほ遠くを眺めると、ああ、自分の松林の外囲に思ひがけもない広い/\松原が、果てしもなく連なつてゐて、そしてそれが皆救ふ事の出来ない全くの絶望を以て、真赤に枯れてゐるではないか。それにしても何故《なぜ》こんなに醜く真赤に枯れたのであらう。あまりの事に我を忘れて立ちあがらうとすると、夢はさめた。全身心持悪るくびつしよりと冷汗をかいてゐる。暫《しば》らく気を失つた様になつて、只《たゞ》茫然《ばうぜん》としてゐたが、我にかへつて四囲を見渡せば、我が松林は今や夕日を受けて、その緑は常にもまして美しく眺められた。そして頬白は矢張、遠くへは去らずどこか近くの松の枝で囀つてゐる。
――夢だつたのだ。
と強く心にも打ち消し、口に出しても云つた、が何故か胸のさわぎはいつまでも静まらなかつた。
と、それから四五日して夜、又、夢に、…松風がごーつと悲しく吹き渡り、そしてそれから広い/\松原の醜く真赤に枯れた状《さま》がまざ/\と彼の目の前に現はれて来るのであつた。
――夢なのだ。
彼は何かを強く追ひのける様にかう叫んだ。
しかしこの夢はその後、幾度も/\彼の眠りに現はれて、執《しふ》ねくも彼を悩まし続けて行くのであつた。
[#地から2字上げ](大正元年九月作)
底本:「現代日本文學大系 49」
1973(昭和47)年2月5日初版第1刷発行
2000(平成12)年1月30日初版第13刷発行
初出:「奇蹟」
1912(大正元)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:岡本ゆみ子
校正:林 幸雄
2009年5月22日作成
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