相馬泰三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)嵐《あらし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)暫時|可笑《をか》しさ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)きちん[#「きちん」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ばら/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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       一

 そとは嵐《あらし》である。高い梢《こずゑ》で枝と枝との騒がしくかち合ふ音が聞える。ばら/\と時折り窓をかすめて落葉が飛ぶ。だが、それ等は決して、老医師の静かな物思ひのさまたげにはならなかつた。天井の高い、ガランとした広い部屋の中の空気はヒヤ/\と可成《かなり》冷たかつたが、彼は大きな安楽椅子《あんらくいす》に身を深く埋めてゐたから、それも平気であつた。それに物思ひと云つても、それは彼のこれまでの忙はしい生活に附きまとうてゐた様な、そんな種類のものとは全く趣きを異にした極《きは》めて呑気《のんき》な、責任などと云ふものから全く離れたものであつた。
 膝《ひざ》の上にきちん[#「きちん」に傍点]と手を重ねて、半ば眼を閉ぢてうつら/\と取とめもなく思ひに耽《ふけ》つてゐるうちに急に彼の口元から頬《ほゝ》のあたりへかけて軽い笑ひが浮んで来て、やがて眼がぱちつと開いた。そして暫時|可笑《をか》しさを口の中にこらへて居たが、こらへ兼ねてとう/\噴《ふ》き出して仕舞つた。
 それはかうである。ついこの二週間ばかり前のはなし、自分の第三の結婚式に臨む為めに上京して、その結婚披露の饗宴《きやうえん》の卓上での出来事、――それが、今何かの関係からふと頭の中に浮んで来たのである。
 …………彼は、自分の前に運ばれて来た一片の鳥肉を食べようと思つて、覚束《おぼつか》ない、極めて不調法の手附きで、しかも滑稽《こつけい》な程《ほど》真面目《まじめ》な顔附をしてカチヤン/\と使ひつけないナイフを動かしてゐると、どうした機《はず》みにか余計な力がその手に這入《はひ》つて、はつと思ふ間もあらせず、所もあらうにそれが彼の隣にゐた花嫁さんのパンの皿の中へ飛び込んで仕舞つたものだ……
 それは何時《いつ》までもをかしかつた。しかし又老医師は考へた、自分は自分の老後にこの様な笑ひが自分の身の上に来ような
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