いつも甘い、不敵な、息の窒《つ》まるような予感が通り雲かなどのように、すーっと男の体内を過ぎて行った。男の手にはおのずからある重い力が加わって来た。と、この時初めてお志保は口を開いた。どこかへ引っかかるような、ほとんど聞きとれないような幽《かす》かな声で、「わたし、……懐妊なんでございますわ。」と、云った。
 庸介はそれを聞いた。彼の心の中では、何か積み上げてあったものが急にがらがら[#「がらがら」に傍点]と壊れ落ちたような響が聞えた。とはいえ、そこには愚かな濃い靄《もや》が一ぱいにたちこめていたので、その響はまったく鋭さのない遠い朧《おぼ》ろ朧《おぼ》ろしいものになっていた。……
 お志保はしばらくしてそこを去った。

 白い光の月が空にあった。時々、薄い雲がそれにかかって虹《にじ》のような色に染められた。庭には木々の黒い影が、足の入れどころもないまでに縦横に落ちていた、庸介は小松の林をぬけ、池を廻って母屋《おもや》の裏手へ出た。ばさっ[#「ばさっ」に傍点]とした八《や》ツ手《で》の木の上からちらちら[#「ちらちら」に傍点]と灯が洩れていた。それはお志保の居間の小窓であった。幸いにもカーテンが半ば引かれてあった。彼は、まるで※[#始め二重括弧、1−2−54]夜の獣※[#終わり二重括弧、1−2−55]のようにして息を殺ろしてその窓下へ忍び寄った。そーっと、覗き込むと内にはそんな事とは少しも知らないお志保が、窓側へより添うて一人何かせっせと編物をしていた。赤い笠をつけた小ランプの光りが彼女の顔のところだけをまともに照らしていた。頬へ垂れたほつれ[#「ほつれ」に傍点]毛の一筋一筋まではっきり[#「はっきり」に傍点]と浮いて見えた。彼女の目は編物の進められてゆく所に熱心に注がれていた。金属製の編棒が、動くたびに冷たい色にちかちか[#「ちかちか」に傍点]と光った。ガラス戸の内と外との顔はわずかに二尺とは離れていなかったであろう。それほど庸介は窓の近くに立っていた。自分の吐き出す熱い息が、冷たいガラスの面を白く曇らすのに気がついて、初めてそっと身を引いた。
「……あれが母親だろうか。あんないたいけ[#「いたいけ」に傍点]な、あんな可愛らしい娘が、何でお母さんなどと呼ばれる事ができよう。」彼はそう思った。
「彼女はどう思っているだろう。あんな子供に何が考えられるものか。ほんとに、――どんなふうに思っているのだろう。」また、こうも思った。
 彼は再びそーっと池を廻り、小松の林をぬけて家の前の方へ出て来た。
「子が生れるのだ。あのお腹の中にいるのだ。それがおれの子だ。――あのお志保が母親で、この俺が父親なのだ。」
 庸介は、今はっきり[#「はっきり」に傍点]と心の中で、こう云うのであった。静かに歩きまわった。いろいろの思いが限りなく湧いて来た。「生れて来る子供は男かしら、それとも女かしら、……女の子ならばどうぞお志保によく似てくれ。あれと同じように美しく可愛らしくあってくれ。もしまた、男であったら、……それにしても俺に似てはいけない。」
「否、否、そんな事はどっちだっていい。俺はどうだって構わない。」「ほんとを云えば俺は子供なんか少しも欲しくはないのだ!」「男には子供というものは要がないのだ。……俺は子はいらない。一生涯、何でそんなものが要《い》ろう。一人も要らない。……」こんな事を思っているうちに、彼の心は怪《あや》しく昂奮して来た。何もかも投げ出すような強い非情な心のすぐその裏に、きわめて涙もろい弱い気持ちがぴったり[#「ぴったり」に傍点]寄り添って拡がった。何かしら、世界がしきりに物悲しくなって来た。誰もかれも、みんなが不幸なのだ、どこに、誰が、ほんとに幸福な者がある? そんな者が一人だっているものか。……彼は、誰かが、とりわけふびん[#「ふびん」に傍点]でならなかった。それは誰か、――それは必ずしもお志保のお腹の中の子供だとも云えなかった。むろん、それは彼自身ではなかった。
[#地付き](大正三年七月)



底本:「日本短篇文学全集 第29巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年7月30日第1刷発行
初出:「早稲田文学」
   1914(大正3)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:林 幸雄
2007年8月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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