なってしまわなければ……。」こうみずからそれを打ち消した。そして、
「兄さん! 妾、もうこれですっかりだわ。この外にはもう何んにも云う事なんかないわ。――あるかも知れないが思い出せないわ。」と云って、少し羞《はず》かしそうに、しかしいかにも満足そうににっこりした。
 その日の午過《ひるす》ぎ頃、庸介の父は、その日の最後の患者であった中年の百姓女の右の乳の下の大きな腫物《はれもの》を切開して、その跡を助手と看護婦とが二人がかりで繃帯《ほうたい》をなし終えるのを見ると、急いで外科室を出て来た。そして白い手術服を着けたままで、医院の方の応接室で庸介に遇った。
 久しぶりの対面なので、おたがいに何と云っていいか適当の言葉を見出せなかった。
「まあ、そこへお掛け!」
 こう云って、父は、露出《むきだ》しにしてある手を挙げて卓《テーブル》の側《わき》の一つの椅子を指差した。そのようすは年に似合わずいかにも元気に見なされた。老医師はあらかじめ自分でそれと知っていた。そしてわざとこの科《しぐさ》をこの場合に用いたのであった。
 庸介は心持首を垂れて、重く沈黙していた。それに引替えて父の方は、できるだけ
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