彼を案内して庭へ出た。梅や、楓《かえで》や、青桐やの植込みの間を飛石伝いに離屋《はなれ》の前へ立つと、
「兄さんのいらっしゃるのに、この室が一等いいと思ったのよ。わたし。」
先に立ってとんとんそこへ上って行く妹の後から、彼は黙って続いた。そこは二方に縁側がついていて、さっぱりした明るいところであった。可愛らしい小窓が一つあって、そこに大きな、倚《よ》り心地の良さそうな一つの机(これには彼は見覚えがあった。)を据えて、その上に硯箱《すずりばこ》だの、水入れだの、巻紙の類が行儀よく載せられてあった。床の間には、口の大きな花瓶の中に石竹《せきちく》の真紅な花がおびただしく挿し込まれてあった。そして彼の革鞄《トランク》や、その他の小荷物やが部屋の一隅にすでに運び置かれてあった。
「素敵だね。まったくいい部屋だ。」
この離屋は、彼には予想外であった。彼の驚いたのは無理はなかった。六年前には影も形も無かったのであった。房子は、これは一昨年の秋出来たのである事、上等の病室の補充のつもりで建てられたのだが、一度もその方で使われた事がないと云う事やを彼に説明して聞かせた。
戸を開け放すと、房子は思い出したように急に窓のところへ行って、そこから母屋《おもや》の方へ向って小間使のお志保を呼んだ。そして手真似で何かを命じた。すると間もなくそこへ美しく熟した水蜜桃《すいみつとう》の数個が盆に載せられて運ばれて来た。
房子は、その中から一つを手に取って、
「家の畑でできたのよ。」と云った。それは「妾《わたし》の栽培している樹に生《な》ったのよ。」と云う意味を十分匂わせたつもりだったが、他の事に思い耽《ふけ》っていた庸介にはそれが少しも通じなかった。
沈黙があった。四囲の樹々の葉蔭を通して涼しい風がそこへ流れ込んでいた。房子はたちまち退屈を感じて来た。庸介はすぐとそれに気がついたので、
「さあ、話しておくれ。ね、房子。家の事を、お前の事を、すっかり。」と、まるで妹の機嫌でもとるように口を開いた。
そこで房子は話し出した。
今年の春、庸介のすぐ下の妹の政子(此所から七里ほど離れた村の、ある豪家へ縁付いている)が一度訪ねて来た事、その長女が今年四つで、まあ、それは可愛らしい児である事、それが房子を「おばちゃん! おばちゃん!」と云って、どんなに仲よく自分と遊んだかという事。それから去年の夏、裏の畑の中へ灌水用の井戸を掘ったところが、そこから多量に瓦斯《ガス》が出だして、あまりたくさんに出るままにタンクを据えつけて、今でもそれで台所の煮焼から風呂場まで使ってそれでもまだ余るほどであるという事や、つい先達《せんだって》、家の前を流れている△△川が近年にない大洪水になって、ちょうどこの村の向岸が破堤して、凄まじい響を立てて轟々と落ち込む水の音が、三日三晩も続いて、それがどんなにか自分には恐ろしく感じられたかと云う事やを熱心に語り続けた。しかし、最後に彼女は、
「妾《わたし》だって、ついこの四月までは女学校の寄宿舎でばかり暮らしていたんですもの。そんなに、いろんな事はよくは知らないわ。」と、つけ加えた。
庸介の頭は、まるで乾ききっている海綿が、水の中へ入れられてもすぐに水を吸いこまないように、今、妙に落ち付かない心持ちのために、妹のこれらの言葉には何の交渉をも持ち得なかった。その代りに彼は、妹の頬に浮んでいる美しい赤い血の色や、よく潤《うるお》うている口の中や、その奥で見え隠れしている宝玉のような光沢を持った純白な歯やに我れにもなくじっと見入っているのであった。そして無意識の間に、自分の内なる本能の一部分が狡猾にもその事によってある幽《かす》かな快感に耽っているのであった。彼はみずから、それに気がついた時、驚きと羞恥とのために周章《あわ》てて眼を他に転じた。しかし彼女は、そんな事を露ほども感じなかった。
彼女は喋舌《しゃべ》る事に油が乗って来て、問われもしないのに今度は続いて女学校にいた頃の事に語り及んだ。
数多くの学友の事、先生達の事、寄宿舎の部屋部屋のはなし、食堂、浴室のありさま、――その浴室には素晴らしく大きな鏡があって、それへ自分の裸体の全身が初めて写った時のどんなに羞《はず》かしかったかという事、それから非常に親しくし合った友達が都合四人できてその人達とよく他人に隠れてその浴室の大鏡の前へ並んで立ったという事や、それから、やはりその中の一人で寺本さんという人が巻煙草をすう事が好きで、それが舎監に知れやしないかとどんなに心配していたかという事や、そんな数知れない多くの事を語った。語り終った後になって、彼女は、「それにしても、あんまり何もかも話し過ぎた。」と思った。が、また、「やっぱりこの方が良いんだわ。そして一時も早くすっかり兄さんと親しく
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