。また、ある時、学校の倫理の教室で、あの温良な、年老いた先生は次のように云われた事があった。
「人間はいかなる場合に立到っても決して迷う事をしてはいけません。絶望するという事があってはいけません。常に『限りなき前途』という事を考えるのです。――否、そう云ってはかえって解らなくなるかも知れません。まあ、こう云いましょう。あなた方一人々々について考えてごらんなさい。――例えば将来に、立派な人の妻になる時の事を考えるのです。そう願うのです。もしまた、不幸にして自分の夫となった人が邪《よこしま》な人間である事を見出した場合には、自分の純白な心をもって、それを何とかして正しい道に導き入れてやろうと思うてみるのです。そういう風にして立派な勇気を養うのです。……それから、やがて二人の間に生れて来る自分達の子供の事について考えてごらんなさい。さて、その子供というものはまあ、何と云ったら良いのでしょう、それは、どんな子供でも遣《や》り方《かた》一つでどんな立派な人間にならないとも限らないのです。……この点です。もしも、万一、あなた方が自分自身に望みを失うような事があった場合か、もしくは本当に美しい謙遜な心になり得た場合にはこの偉大なる望みと結び附くことです。私があなた方にお勧めしたいのは実にこの事です。そういうと、何かあなた方に対して失礼なようではありますが、自分自身が偉くなろうと思うよりは、むしろ、皆様女の方は、自分の子供を偉いものにしたいと云う事を志して頂きたいのです。……できるだけ多くの女の方が、……そこにこそ本当の『限りなき前途』があるのです。……もちろん、それがためには自分自身をも修養しなければなりません。されば、どうぞあなた方は自分の処女時代をその修養のために、そうです。立派な母となる準備のために費すようにして頂きたいと思うのです。……とにかく、……いずれにしても、いかなる場合に立到っても前途の望みを捨てるような事のないように、これだけは特によく記憶して置いて頂きたいのです。それでは、私は、『あらゆる罪悪は、まったき絶望よりのみ生ず。』こう申して置きましょう。」
房子は、これをいつまでも忘れなかった。その後、幾度となくその言葉を自分の心の中で繰り返してみた。そのたびごとに彼女はそれに少しも不同意を持ち得なかった。それにもかかわらず、例の測り難き欝憂と退屈とは依然として消え去りはしなかった。この問題はまた父の前にも持ち出された。父は、娘の云う事を静かに聞き終ると、その最後のところへ封でもしてやるかのように、厳重な語調をもって、しかもいかにも慈愛の籠った声で、
「房子や、お前には何の不足しているところはないのだよ。たゞ、少しばかり身体が弱いだけだ。これとて気遣う事などは少しもない。これからは私達の側で、できるだけ身体を動かすような事をして、できるだけ日光に当るような工風《くふう》をして、そしてもう少し丈夫になってくれさえすればよいのだ。それですっかり良くなるのだよ。ね、房子や。そのほかの事は何もかも私達にまかせて置きさえすれば良いのだから。」こう云うのであった。
父は、彼女に、屋敷続きになっている一つの畑を与えた。それへ数種の果樹を植えてやった。苺《いちご》の苗を買ってやった。草花の種子や球根やをいろいろ遠い所からわざわざ取り寄せてやった。鍬《くわ》や、鎌や、バケツや、水桶や、如露《じょろ》や、そう云ったものを一式揃えて持たせた。……間もなく彼女はこの仕事(?)にかなり深い興味と趣味とを感じて来た。うっかり[#「うっかり」に傍点]しているとすぐに夥《おびただ》しく繁殖する、果樹につく天狗虫《てんぐむし》、赤虫、綿虫や、それから薔薇や他の草花やの茎にとかくつきたがる油虫やの類《たぐい》を見つけ次第に一一除《と》り去ってやった。それは、良い果実を収穫し、良い花を咲かせたいという考よりもむしろ、それ等の木や草やを愍《いた》わり愛する情のためからであった。房子は、今、朝顔の鉢を幾つとなく持っていた。竹や葭《よし》を綺麗に組み合わせて小さな小屋形のものを作り、それに朝顔を一ぱいに絡《から》ませたりしてあるのも、その園内に持っていた。
ある日の暮れ方、房子が、襷《たすき》がけになってそれ等の草木に一生懸命になって水を与えているところへ、庸介がやって来た。彼は、仕事の済むまで妹の邪魔をしまいと思って、入口の所で黙って立っていた。すると、すぐに房子がそれを見つけて、嬉しそうに走《か》け出して来て兄を中へ案内した。青々としたすべての葉が、今|灌《そそ》ぎかけられた水のためにいっそう生々と光沢を添えて、見るからに健康そうで幸福そうであった。煌々《きらきら》と光る露のダイヤモンドが、方々で幽《かす》かな音を立ててしきりに滴《したた》っていた。
二人は
前へ
次へ
全21ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
相馬 泰三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング