が、一時に長く鳴り出す。平安の夕べを讃美するように、またこの平安の耕原を祝福するかのように、あとを曳いて遠く物静かに響きわたる。……
「俺は、もう何にも云うまい。」こう、庸介は心に深くきめた。
「俺が、彼等に何をしてやる事ができるのだ、彼等は俺に何も望んでいるのではない。そしてまた、自分から云ってみても、彼等をみだりに乱したりする必要が何であろう。……飛ぶ鳥をして飛ぶ鳥の歌を唄わしめるがいい、野の草をして野の花を咲かしめるがいいのだ。何者がそれを妨げたり、それに手入を加えたりする事がいろう。……俺が今、どのような思想を持ち、どのような人生観を抱いていたからと云って、それはみんな俺一人のことだ。むろん、俺はそれを何者からも自由にさして置いて貰いたい。その代り、俺もまた、俺の思想、人生観のために他人をとやこう[#「とやこう」に傍点]しようとはしまい。通じ合い、融け合うものなら、おのずからにして通じ、おのずからにして融け合うであろう。我々はそれを待つほかないのだ。そうだ。自分が偉大になり、自分が成就《じょうじゅ》するのゆえをもって他を騒がし、他をそこねたくはないものだ。――例えば善悪のような場合にしても、悪を滅さなければ善がなり立たないように考えるのは誤ではあるまいか。善の生長、善の存立のために強《あなが》ちに悪を圧し、悪と戦わねばならぬような善なら、そんな善なら俺は賛成できない。……泥海の底で、真珠が自分の光を放っていたってそれでもいい訳ではないか。」こう思うのであった。
その日は、初秋の風が朝から家のぐるりをさらさら[#「さらさら」に傍点]と廻っていた。家の前の大きな竹林が、ちょうど、寄せてはかえす海の波のような音を立ててざわめいて[#「ざわめいて」に傍点]いた。何となく遠い事がそこはか[#「そこはか」に傍点]となく忍び出されるような夜であった。この六年の間、いろいろに結びつき、また離れ合った彼、彼女、彼等、彼女等――都恋しい思いがたまらなく彼の胸に迫って来るのであった。
彼は押入れの戸をあけて、一本の葡萄酒《ぶどうしゅ》の瓶をとり出した。そして、それを台のついた小さなグラスに汲んでちびりちびり[#「ちびりちびり」に傍点]とやり初めた。酔《よい》が快く廻って行った。
母屋《おもや》の方はもうすっかり[#「すっかり」に傍点]燈火《あかり》が消えて、家の人達は誰もか
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