鹿な! 誰がそんな事をするものか。」父は云った。
「何だか、わたし、いやだね。」母が云った。
「庸介の云うようでは、まるで無責任きわまった話しだ。まったくさ。先祖代々の屋敷を畑にして良い位なら、何で私達がこれまでこんな苦労をして来たであろう。」たまりかねたようにして父が云った。
「しかし、私共がまたどこかで新らしい先祖となって行ったら、それで同じことではありませんか。――私などの考ではこういう事はできるだけ自由な、どうでもいいような気持ちでいられるのが一番幸福だと思うんですがね。」
「あゝ、厭だ。もう、そんな話しは止《よ》しにしよう。……そんな事を考えるとほんとに心細くなってしようがないから。……だから妾はいつもそう思っているんですよ。どうかして妾は誰よりも先きに死んでゆけばいいとね。……あとに一人ぼっちで残されたりしたら妾、ほんとにどうしよう。……」
 母が、こう云い出したので庸介は、自分が今何を云っているかという事に初めて気が附いた。「何という事だ。俺は実に何という馬鹿者なのだ。何の益にもならない、下らない事をしゃべり散らして、それがために父や母はどんなにか心を傷《いた》めておいでの事だか……」こう思うて急に口を噤《つぐ》んだ。自分の無分別がたまらなく口惜しかった。で、彼は、まるでお詫びでも申上げるように、
「お母さん、これはみんな、いつもの私の出鱈目《でたらめ》なんですよ……馬鹿な、そんな事を云い出しっこはなしにしましょう。ね、みんなじょうだん[#「じょうだん」に傍点]なんですよ。……それに私のような者が何を云ったって、どうなるもんでもありゃしないじゃありませんか。」と云った。
 何もかもこの一言で、今まで云った事をすっかり烟《けむり》にして掻き消したいものだと願った。

     八

 太陽が地平線へ沈んだあとのしばしが間の野のながめ、その美しさ、その静けさはまた何に譬《たと》えよう。……畑中の並木が紫に烟り、昼間は藍色《あいいろ》に見えていた遠くの山々が、今は夕栄《ゆうば》えの光りを受けてほとんど淡紅色と云い得るまでに淡く薄い色になってゆく。まるで(色づけられた気体)と云ったように……あたり一面に低く白い雲が下りて来る。野の末は次第に空と溶け合い、そしてそこからやがて静かな重い夜が迫って来る。するとそれを待ちかねていたかのように村々の寺からつき出す鐘の音
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