なって行くのであった。そして自分の云っている事が自分ながらあまりに乱暴で、粗雑で、あまりに空元気のような気がしてならなかった。
 老医師は、おいおいと、自分の息子があまりに激越してゆくさまを愍《あわ》れに感じ出すのであった。そしていつの間にか、話題を巧みに他に滑らし行くのであった。
 庸介は、これらの議論の後に心の中で、静かに、
「いつか、俺の考をちゃん[#「ちゃん」に傍点]と纒めて書いてみよう。」こんなふうに云う事もあった。しかし、筆を執ってみると、各の思想と、各の思想との間には常に千万の距《へだた》りや矛盾やがあるように思われたり、言葉と言葉とがおたがいに相続き合う事を妙に拒《こば》みでもしているように感じられたりしていつも五行と書き進める事ができなかった。やがてその原稿を引裂いて投げ捨ててしまうのであった。
 時にはまた、父は静かな調子で「家」の事を庸介に話して聞かせた。
 この家では、いまだに相続する人が定っていなかった。というのは、長男の豊夫というのが今から十年ほど前に家出をして、そのまま今に、帰って来る事やら帰って来ないものやらそれさえ明らかでないのであった。彼は事業熱のために家の金を持ち出して、それで東北地方へ行って林檎園を企てようとしたがうまく行かず、それから山林、牧畜などにも手を附けようとしたがいずれも物にはならず、ついに北|亜米利加《アメリカ》へ渡って労働に従事した。それからが六年ほどになる。それでやはり面白い事もないらしい。最近に次男の修二のところへ来た手紙には、「……さて、愚生には当分帰国出来そうにもない。一生をこの地で過すやも知れないから、愚生の事はこの世になきものと思って後の事はくれぐれもよろしくお願いする。いずれ土産でもできたら一度みんなにお目にかかりに行こう。何分にも遺憾至極なのは今もって父母に御報恩|相叶《あいかな》わない一事だ。貴下にはできる限り御孝養のほど御願い申上げる。……愚兄より」こんな意味の事が書き記されてあった。
 次男の修二は、夙《はや》くから実業に志し、これは万事好都合に運んで、今は神戸の街にかなりの店を開いてそこの主人として相当に活動している。こんな訳で今更ら、こんな所へ来てこんな家の相続をするなどは思いも寄らぬ事であった。その次ぎがこの庸介であるが、この問題はそこまで行く前に律子の上に向けられた。彼女は豊夫が、家
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