をしてたちまちに、
「八十円ほど……。」と答えしめるだけな恩愛の情が漲《みなぎ》っていた。
「ほんとにそれだけで良いのかい。……あとでまた何か云い出したって、妾《わたし》はもう知りませんよ。それですっかりよくなるのだね、ほんとに?」
「はい。」
こう、はっきり[#「はっきり」に傍点]と答えた時に庸介の眼から涙がぽろりと落ちた。
彼は、母の深い情を感ずるよりも、自分自身の臆病な、卑屈な心をつくづく羞《はず》かしく思うた。彼が今、しきりに督促に遇《あ》っている借財の口は都合三ツあって、それを片附けるには百弐拾円と少しなければならないのであった。「何で、それを正直に打明ける事ができないのだ! この場合になってかくのごとく限りなき母の愛情の前に坐っていながら、四拾や五拾の金額を少なく申出る事によって幾分なりともなお自分の面目なさを軽くしようなどとは実に何という見下げ果てた根性だ!」彼はこの時ほど自分自身に対して酷《ひど》く憎悪の感を覚えた事は、これまでに一度もなかった。
この事は、その後幾日も彼を責めた。
家の中に息づまるような、厭な小暗さが加って来た。家の人達と彼との間に陰気な密雲が蔽《おお》いかぶさったようになって、名前をもってたがいを呼び合うというような事が、何となくできにくいような心持ちが続いた。
父の翻訳の方が忙しくなっていた。主にそんな事で彼は日を暮らした。それは維也納《ウィーン》のある博士が、ある医師会の席場に試みた、終焉《しゅうえん》に関しての講演の筆記であった。殆んどすべての終焉が生理的にまったく快感性のものである事を論じたので、きわめて興味深いものであった。それには、数えきれないほどさまざまな終焉の場合と、それについての饒多《じょうた》な実例とが挙げられてあった。中には、高い崖の上から落下して長い間気絶していた人や、溺死した人やのその人自身の詳《くわ》しい実話などもあった。それ等の人々は、その後他人によって幸にして蘇生させられなかったならば正しくそのまゝ絶命してしまったに相違なかったものであった。……
その博士は貴族であった。それにゲーテなどを愛読している人のようでもあった。云わんとしている事がきわめて微細な科学的なものであるにもかかわらず、その云いまわしは典雅荘重をきわめていた。時にゲーテの詩の数句が引かれてあったりした。
彼は、明快を主
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