上げられて再び小作人たちの手に委《ゆだ》ねられた裏の畑地は、何事も起らなかつたもののやうに、間もなく、以前と少しの変りもない旧《もと》の姿に復《かへ》つて行つた。こま[#「こま」に傍点]/\した幾つかの小さな畑に区劃《くくわく》され、豆やら大根やら黍《きび》やら瓜《うり》やら――様々なものがごつちや[#「ごつちや」に傍点]に、風《ふう》も態《ざま》もなく無闇《むやみ》に仕付けられた。小作人たちは其処《そこ》で再び彼等独有な、祖先伝来の永遠の労苦を訴へるやうな、地を匍《は》ふやうに響く、陰欝《いんうつ》な、退屈な野良唄《のらうた》を唄ひ出した。そして、その周囲《まはり》の物懶《ものう》げな、動かし難い単調が再びそこを蔽《おほ》ひ尽してしまつた。
永い一日の間に、ほんの一寸した雲の切目から薄い日の光が、ほんの一寸の間《ま》ぱーつと洩《も》れて来た。と思ふともう消えてしまつた。欣之介の傷ついた心には、その後の曇天が以前にも増して一層暗欝に一層|厭《いと》はしいものに感じられた。彼は、世に容《い》れられない不遇の詩人のやうに徒《いたづ》らに苛々《いら/\》した。悩ましい、どうしようもない、悲しい一日々々を重ねた。しかし、彼の内部に一度巣くつた憧憬《しようけい》は、やがてまた新らしい形となつて頭を擡《もた》げ初めた。
「此地《こゝ》でない、どこか他《ほか》の処《ところ》に広々とした、まだ何者にも耕し古るされてゐない新鮮な沃野《よくや》が拡がつてゐる。そこには旧《ふ》るくさい不自由な式たり[#「式たり」に傍点]、何とも知れず厭《いや》な様々な因縁《いんねん》――邪魔をするものが何もない。思ひのまゝに力一ぱいに仕事をすることが出来る!」
青年の心は再び新らしく呼び起された。彼の机の上に、オーストラリア、カリフォルニア、テキサス、ブラジル……さういふ国々の土地に関したことを書いた書物が幾冊か取集められた。それ等の書物の中に、方々の耕作地や、牧場や、山林や、港やの写真が沢山載つてゐた。その中の一つには、人間《ひと》の背丈《せい》の三倍もあるやうな高さの綿花《わた》の木が見渡す限り涯《はてし》もなく繁つてゐる図があつた。と、他の一つに――これは何処《どこ》かの港の図で――何か袋につめた収穫物が大きな丘のやうに積み重ねてある。それを大勢の人足共がその周囲《まはり》に集つて端から/\と運び出してゐる。人足共の蟻《あり》の行列の末は埠頭《はとば》に繋《つな》いである大きな汽船の中へと流れ込んでゐる。……
ある年の夏の初め、欣之介のゐる離家《はなれ》の横手にある灰汁柴《あくしば》の枝々の先端《さき》へ小さな粒々の白い花が咲き出した頃の或る日暮方、革紐《かはひも》で堅く結《ゆは》へた白いズックの鞄《かばん》が一つ、その灰汁柴の藪蔭《やぶかげ》に置いてあつた。が、誰もそれに気づくものがなかつた。そして、その翌朝《よくあさ》、下男の庄吉が庭掃《にははき》に出た時には、それはもう失くなつてゐた。
その日から、欣之介の姿はそのあたりに見ることが出来なかつた。
五
更らに又十幾年かの歳月が経《た》つた。
その間に、村では、宇沢家の老主人が亡くなり、その後を次男の敬二郎が相続し、病身の大学生が死に、欣之介のところへよく話しにやつて来た小学校の教師が永年の勤続の結果として校長にあげられたりした。が、それ等は何れも如何《いか》にも尋常に、少しの際立《きはだ》つことなく、いつも穏かに取片附いてゆき、そこには殆《ほと》んど何の推移もなかつたやうにさへ思はれた。
家出をした欣之介はその後或る便宜を得てアメリカへ渡つて行つたが、其地《そこ》で何をしたか、今何をしてゐるか? それに答へるものは、彼が向ふから弟の敬二郎に書き送つた幾通かの手紙の外にない。それには次のやうな事が書いであつた。――
*
(前略)余はふと[#「ふと」に傍点]した機会で思はしき手頃の土地見当りし故《ゆゑ》、今冬より満四ヶ年の契約にて借受け、試み旁々《かた/″\》事業着手のことに致《いた》し候《さふろふ》。余がこれまで寝食せし所、それは賄付《まかなひつき》の宿屋などとは以つての外のこと、テント同様の仮小屋にて、板敷の床へ薄つぺらの蒲団《ふとん》を敷きて寝るといふ始末、最初は身体が痛くて困難せしも、だん/\日を経《ふ》るに従ひ格別苦にもならぬやうに相成候《あひなりそろ》。賄は七八人以下の団体稼《だんたいかせ》ぎの時分には廻りコックにて、これにも初めは極《ひど》く閉口したが今では仲々|下手《へた》なおさんどんなどはだし[#「はだし」に傍点]だよ。食べ物は日本と大差はないが、味は肉類野菜類|何《いづ》れも日本のそれとは比較にならぬほどまづい[#「まづい」に傍点]。(中略)
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