られました、それで二三の同志が落合つた折、自然話は夏目さんの病気に及びました。其頃ベルリン留学生の或る真面目な方が発狂して下宿屋に放火したといふ一珍談があつたので芳賀先生は『……どうも困つたな、夏目もろくに酒も飲まず、あまり真面目に勉強するから鬱屈して、さうなつたんだらう、もう留学も満期になる頃だが、それを早めて帰朝させたい、帰朝となると多少気がはれるだらう、文部省の当局に話さうか……』――正確には記憶しませんが以上の意味の言葉があつたやうです、(姉崎正治教授がその席にお出ででなかつたか、どうか、何しろ二十五六年前のことなので記憶は朦朧たらざるを得ません)
あとに述べる通りそれから一ヶ月以内に私は全く英国を去つてしまつたので、くはしい其後の消息はわかりませんが、帰朝の期の早まつたことは良好の結果を来した云々とパリで所謂風の便りに聞いたやうです。多分芳賀先生が文部当局と相談なされての上で無かつたでせうか? 当時文部省には芳賀先生の親友上田萬年博士が専門局長であられたと記憶します、今日の学習院長福原さん、先頃まで大阪高等学校の野田義夫さんも同省に在官であられたでせう。ともかく此件に関しては漱石さんは感謝さるべきであると信じます。
『夏目と同じ英文学の研究者の所から、夏目が失脚すればその地位(!)が自然自分のところにまはつて来るといふので(!)たいした症状もないのにこんな奸策(!)をめぐらしたのだ(!)彼奴は(!)怪しからん奴だ(!)などゝ憤懣の口調を洩してゐたことがありました』『改造』正月号三十ぺージの一段は私にとり意外千万で、今日迄全く思ひもかけなかつた次第であります。
所謂奸策[#「奸策」に傍点]とは『文部省とかへ打電云々』を指してるのはお言葉の前後から正当に推量されますが、驚き入つた次第です。一私人が文部省に打電云々は前述の如く私自身が発狂せぬ限はあり得ません。もし文部省へでは無い、一官人か一私人かに打電したとなら果して誰に対してですか。甚だケチなことを申すやうでお恥しい次第ですが、懐中乏しい当時の一私費生は(眼前フランス行を決定して居つて)当時ロンドンから日本へ『一文部省留学生が精神病にかゝつた』と発電する余裕は御座いませんでした。一日も早くと消息を聞きたがつてゐる父や母や妻にも『フランス着』の電報を発したのではありませんでした。
九月十八日夏目さんの宿を辞した私は十月十一日全く英国を去り、ヴイクトリヤ停車場から、ニユーヘブン、デイプを経て武田五一さん(今日京都大学工学部教授)の親切にもルーアン迄の御出迎を受けて同日夕パリに着き、パンテオン附近、カーテルラタンのスーフロウ館、和田英作さん、中村不折さん、中川孝太郎さんの宿に落ちつきました。そして翌年(三十六年)三月頃から南欧の旅に立ち、イタリヤの南端シシリイ島を極として再び北に帰り、瑞西、独乙に各数月を過し、帰国準備のため、ロンドンに帰つたのは三十七年の秋、日露戦役の闌なりし頃、そして懐しい日東帝国に帰つたのは同年十一月です。
夏目さんの失脚を覗つたなら英国で神妙に英語英文を研究して機会を待つたであらうとは常識にも考へられぬでせうか。
帰国後、父の望なので東京には住せず、仙台に帰つてブラ/\して居ましたが卅八年四月二高の独語主任青木(昌吉)教授が『独乙語の教師に欠員があるから手伝はぬか』との好意と周旋とにより、甚だ覚束ない独乙語教師として二三年つとめ、続いて職員の都合がついて英語部へ移つて爾来二十余年、今日も猶ほ其運命を続けて居ります。非材の分止むを得ません。
あなたが誤つて漱石さんのお言葉を伝へたとは到底思ひもよらぬ事ですが、其に因れば漱石さんは二重の誤解をなさいました。
(一)私が『夏目発狂』云々の打電をしたことのないのに打電したとの誤解。
(二)誰が発電したにせよ、せぬにせよ、発電があつたとすれば前後の事情より察しても分る通り其発電者は好意上よりなりしを悪意よりとの誤解。
外ならぬあなたのお言葉ですから、到底之を否定する事は出来ませんが、実際夏目漱石先生がああいふ言葉を発せられ、ああいふ考を抱かれたとは、どうしても信じたくないのであります。
帰朝以来千駄木町のお宅に参上したこともあります、蛟竜池底を出でて淵に躍る前後は度々賞讚と渇仰の言を呈したこともあります。漱石全集中の書翰部にある通り、漱石さんの自画像に懇篤の言を添へられたのを頂戴したこともあります。其の漱石さんが私を目して『我が失脚に乗ぜんとて奸策を弄したもの』と思はれ、又人に口外されたとは、どうしても論理に合はず、常識の所見にも合はぬ次第です。『怨を匿《かく》して友とするを左丘明は恥づ、丘も亦恥づ』と孔夫子が仰せられました。しかし何度申しても外ならぬあなたが『良人がかく曰つた』と公言される上は全
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