た野口を慰め勵まし、『家族のことは一切引受けた、アメリカに行け、背水の陣を布け、世界に名を揚ぐるほどの學者になれ』と諭したのは翁であつた、感謝の涙で以來野口からその生を終るまで父と敬稱されたのは翁であつた。
アメリカ渡航前、小林夫人の病氣を聞き歸郷して、看病の隙に拾ひ讀みをしたのは坪内逍遙先生のお若い時の作『當世書生氣質』であつたが、その中に放蕩兒野々口清作といふ人物のあるのを見て、當時彼の名も清作であつたので大に氣を惡くした、そこで小林翁はいろ/\戸籍吏と交渉して、小林家の祖先の名のりの一字をいれた「英世」と改名させたのである。記念品の數々を感激の眼で眺めた後、湖畔に沿ふ長い田舍路を乘車十分ばかりで三城潟に着いた、豫想通の一寒村――そのうちにも念入の破屋の前に、「野口英世誕生家」と木標がある、湖水に面した中庭には海軍少將松平子爵の筆で同文の石碑がある、その下には遺髮が埋められてゐる。
高松宮殿下恩賜の植樹が列を正してゐる、隣の隣が松島屋といふ伯樂宿である、これも可なりすたれたが偉人の少年時代の尊い記念である、同家の老女が親切に案内してくれた、『こゝの柱によりかゝつて野口さんは夜更けるまで本を讀んで居ました』。ぼろにくるまつた不具の少年――家には燈火が無いので、この伯樂宿のふろ番をしながらその光で勉強したのであつた。
それが小學卒業後ほとんど獨力で醫學を修め、出京してほんの一時濟生學舍に學び――卒業後順天堂の助手――高山齒科醫學院講師――傳染病研究所助手――内務省檢疫係――支那牛莊の衞生局附屬醫院部長――渡米してペンシルバニヤ大學病理學の助手――ワシントン市のカーネギイ研究所助手――ロツクフエラー醫學研究所助手(一九〇四年)といふ經路を踏み、それより以後は加速度的に躍進向上進歩して、一九一四年には世界の權威を集めたロツクフエラー研究所最高幹部の「メムバー」(六巨頭)の一となり、最後までこの光榮の位置を占めて學界無上の偉勳を立てた。ほとんど奇蹟といつて差支はなからう。
さるにても湖畔に立つて見渡す所何といふ破屋! しかもコントラストに何といふ湖水の風致! いろ/\の思ひで知らず識らず垂れた頭をふりあぐると、盤梯山の雄姿! たそがれ近い、雲は去り雲は來つて峻嶺をあるひは現し、あるひは隱す。この山水秀麗の氣をうけて向後、百年あるひは千年再びかゝる偉人が生るゝか、ど
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