れた。式後に當時全歐の覇王であつた萬有科學の權威國ドイツ皇帝陛下から數百人の學者の前で、親しく推稱の演説を忝けなうした唯一の光榮者は彼野口であつた。
 かゝる學者が日本人であつたといふ事はどれほど日本の光榮であるか、後進の青年輩にとりて何等の活ける教訓であるか。惜いかな、その日その日の紛々たる出來事が絶えず眼前に現るゝので健忘の我々は、かゝる偉人の存在をもさつさと葬り去つてしまふ、無理も無いが殘念である、教育上からも多大の損失である。
 彼が偉勳を立てた南米エクアドルには、その表彰の記念碑があり銅像があり、野口町と改稱された町があるのに、日本に同樣のものが無いのは惜しい。確聞する所だが『もし野口記念會が確立するなら毎年三千ドルを送金しよう』と外務省あてにロツクフエラー研究所から通知されてゐるといふ。私はこれを爲政者、教育者に注意し、そして「野口記念館」の速かな設立を切に勸めたい。
 野口は福島縣の猪苗代湖畔の極貧兒と生れ、三歳の折爐に落ちて右手は無殘に燒けたゞれ、不具兒となつたが、天分の英才は小學時代から光りだした。これを認めてこの神童を大成せしむべく努力した最初の恩人は猪苗代町古城町に現住の小林榮さんである。その小林翁に招かれて野口の生家を訪うたのは九月二十四日の旗日であつた。
 驛につくと小林翁が同志數人と共に迎へてくれる、乘車して五分ばかりすると古城(名の通り城跡のある所)の翁の家に着き、在アメリカの野口未亡人メリイさんから送り屆けられた[#「送り屆けられた」は底本では「送り屈けられた」]一切の記念品を見せて頂いた。『世界人の横顏』にある自畫像原物がある、同じく野口の描いたメリイ夫人の像がある、又いろ/\のスケツチがある。エクアドル國から贈られた軍醫監の禮服と通常軍服、軍劍軍帽がある、日常身につけた幾通りかの衣服、シヤツ等がある。歐米諸國から寄贈の學位記、表徳記、推戴記等は無數にある。これ等は他日野口記念館を建てゝ永久に保存し、世界觀光團の巡禮所の一としたいと思ふ。美しい猪苗代湖は『野口英世その湖畔に生る』で世界に知らるゝ時が來ないとは限らぬ。
 小林翁は野口の少年時代から涙ぐまるゝ純眞の愛で、この不具の極貧兒を世界の大學者たらしめ、日本の光榮たらしめた恩人の一人である。アメリカ渡航の熱情が火の如く燃えたが、家族への心配が當然に念頭を離れぬので煩悶にたへなかつ
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