Vの暦數こゝにつぐ
時《とき》建安の二十六
景星照りて錦江の
流に泛ぶ花の影。

花とこしへの春ならじ、
夏の火峯の雲落ちて
御林の陣を焚き掃ふ
四十餘營のあといづこ、
雲雨荒臺夢ならず
巫山のかたへ秋寒く
名も白帝の城のうち
龍駕駐るいつまでか。

その三峽の道遠き
永安宮の夜の雨
泣いて聞きけむ龍榻に
君がいまはのみことのり
忍べば遠きいにしへの
三顧の知遇またこゝに
重ねて篤き君の恩、
諸王に父と拜されし
思やいかに其宵の。

邊塞遠く雲分けて
瘴烟蠻雨ものすごき
不毛の郷に攻め入れば
暗し瀘水の夜半の月、
妙算世にも比なき
智仁を兼ぬるほこさきに
南夷いくたび驚きて
君を崇めし「神なり」と。

   (四)[#「(四)」は縦中横]

南方すでに定りて
兵は精しく糧は足る、
君王の志うけつぎて
姦を攘はん時は今、
江漢常武いにしへの
ためしを今にこゝに見る
建興五年あけの空、
日は暖かに大旗の
龍蛇も動く春の雲、
馬は嘶き人勇む
三軍の師を隨へて
中原北に上りけり。

六たび祁山の嶺の上
風雲動き旗かへり
天地もどよむ漢の軍、
※[#「彳+編のつくり」の「戸」に代えて「戸の旧字」、第3水準1−84−34]師節度を誤れる
街亭の敗何かある、
鯨鯢吼えて波怒り
あらし狂ふて草は伏す
王師十萬秋高く
武都陰平を平げて
立てり渭南の岸の上。

拒ぐはたそや敵の軍、
かれ中原の一奇才
韜畧深く密ながら
君に向はんすべぞなき、
納めも受けむ贈られし
素衣巾幗のあなどりも、
陣を堅うし手を束ね
魏軍守りて出ざりき。

鴻業果たし收むべき
その時天は貸さずして
出師なかばに君病みぬ、
三顧の遠きむかしより
夢寐も忘れぬ君の恩
答て盡すまごゝろを
示すか吐ける紅血《くれなゐ》は、
建興の十三秋なかば
丞相病篤かりき。

   (五)[#「(五)」は縦中横]

魏軍の營も音絶て
夜は靜かなり五丈原、
たゝずと思ふ今のまも
丹心國を忘られず、
病を扶け身を起し
臥帳掲げて立ちいづる
夜半の大空雲もなし。

※[#「刀」の「ノ」が横向き、第3水準1−14−58]斗聲無く露落ちて
旌旗は寒し風清し、
三軍ひとしく聲呑みて
つゝしみ迎ふ大軍師、
羽扇綸巾膚寒み
おもわやつれし病める身を
知るや非情の小夜あらし。

諸壘あまねく經※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りて
輪車靜かにきしり行く、
星斗は開く天の陣
山河はつらぬ地の營所、
つるぎは光り影冴て
結ぶに似たり夜半の霜。

嗚呼陣頭にあらはれて
敵とまた見ん時やいつ、
祁山の嶺に長驅して
心は勇む風の前、
王師たゞちに北をさし
馬に河洛に飮まさむと
願ひしそれもあだなりや、
胸裏百萬兵はあり
帳下三千將足るも
彼れはた時をいかにせむ。

成敗遂に天の命
事あらかじめ圖られず、
舊都再び駕を迎へ
麟臺永く名を傳ふ
春《はる》玉樓の花の色
いさほし成りて南陽に
琴書をまたも友とせむ
望みは遂に空しきか。

君恩酬ふ身の一死
今更我を惜まねど
行末いかに漢の運、
過ぎしを忍び後しのぶ
無限の思無限の情、
南成都の空いづこ
玉壘今は秋更けて
錦江の水痩せぬべく、
鐵馬あらしに噺きて
劔關の雲睡ぶるべく。

明主の知遇身に受けて
三顧の恩にゆくりなく
立ちも出でけむ舊草廬、
嗚呼鳳遂に衰へて
今に楚狂の歌もあれ
人生意氣に感じては
成否をたれかあげつらふ。

成否を誰れかあげつらふ
一死盡くしゝ身の誠、
仰げば銀河影冴えて
無數の星斗光濃し、
照すやいなや英雄の
苦心孤忠の胸ひとつ
其壯烈に感じては
鬼神も哭かむ秋の風。

   (六)[#「(六)」は縦中横]

鬼神も哭かむ秋の風、
行て渭水の岸の上
夫の殘柳の恨訪へ、
劫初このかた絶えまなき
無限のあらし吹過ぎて
野は一叢の露深く
世は北※[#「氓のへん+おおざと」、第3水準1−92−61]の墓高く。

蘭は碎けぬ露のもと
桂は折れぬ霜の前
霞に包む花の色
蜂蝶睡る草の蔭
色もにほひも消去りて
有情《うじやう》も同じ世々の秋。

群雄次第に凋落し
雄圖は鴻の去るに似て
山河幾とせ秋の色
榮華盛衰こと/″\く
むなしき空に消行けば
世は一塲《いちぢやう》の春の夢。

撃たるゝものも撃つものも
今更こゝに見かへれば
共に夕の嶺の雲
風に亂れて散るがごと、
蠻觸二邦角の上
蝸牛の譬おもほへば
世々の姿はこれなりき。

金棺|灰《はひ》を葬りて
魚水の契り君王も
今《いま》泉臺の夜の客、
中原北を眺むれば
銅雀臺の春の月
今は雲間のよその影、
大江の南建業の
花の盛りもいつまでか。

五虎の將軍今いづこ、
神機きほひし江南の
かれも英才いまいづこ、
北の滑水の岸守る
仲達かれもいつまでか、
感極まりて氣も遙か
聞けば魏軍の夜半の陣
一曲遠し悲笳の聲。


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