名殘は盡きず今更に
分ちかねたる袖の上
涙も露もしげくして。

「清き水面に塵もなき
君はみやまのいさゝ川、
碎け流れて世にいづる
われははかなき落瀧津、
同じひとつの水筋も
別れて遠し本と末。

「高峰の花に誘はれて
分け來し袖も薫りけむ、
紅埋む夕霞
緑糸よる玉柳
深山の奧に君を見れば
武陵の里もこゝなりき。

「八重だつ雲に世をへだて
過しゝ月日いかなりし
横雲わかるしのゝめに
きくは雲雀の春の歌
霞む川邊の夕暮に
訪ふは菫の花の床。

「未來の空のたのしくて
ゑひしもはかな春の夢、
浮世の憂を吹送る
あらしの音に驚けば
ゆふべの雲はあとなくて
野にも山にも秋はきぬ。

「塵のむくろによしなくも
やどる思のなかりせば
今の嘆のあるべしや、
見しよの夢を呼び返す
みそらの風は吹絶て
恨はつくる時ぞなき。

くづをるさまはあらねども
哀れをこむるまなじりに
帶ぶるや露の玉かつら
かしらを垂れて乙女子は――、

「定まる道にすべもなく
深山に君をとゞめ得じ、
定離のためし顧みて
心なしとな恨みぞよ。

「とこよの花のさきにほふ
神の御園を閉されて
かどにたゝずむ罪人に
風吹送る天《てん》の樂
泣きてきゝけむいにしへの
ためしをあはれ思はずや。

「いさゝ小舟に棹さして
漕行く末も程遠き
君が船路の楫まくら、
寢覺の月の影さえて
風凄まじき夜な/\は
思ひもいでよ我が里を。

「長き船路の盡きん時
あらきあらしのやまん時
波も霞の礒ちかく
散りくる花のふゞきもて
繋ぐ小舟のとま葺きて
またも逢見ん折をこそ。」

さらばとばかり夕浪も
咽ぶ恨のせゝらぎや
霧たちこむる谷川は
跡見返れどかひぞなき
浮世の秋ももろともに
流れ/\て末遠く。

  枯柳

沈む夕日を見送りて
佇む岸のかれやなぎ、
消えぬすがたはつらくとも
しばしは忍べ程もなく
暗のころもに包ませむ、
下ゆく流水痩せて
咽ぶも悲し秋の聲。

  造化妙工

嗚呼うるはしき天地《あめつち》の
たくみをいかにたゝへまし、
月日めぐりて年行きて
かゆるいくそのけしきぞや。

春の歩みのつくところ
地に花薫り草いろひ、
春の呼吸《いぶき》のゆくところ
空に蝶舞ひ鳥歌ふ。

清きは夏の夕河原
凉しき眺見よやとて
空に月照り風そよぎ
地に露結び水ながる。

しぐれも雲も時めきて
秋の夕の色よはた
谿は紅葉のあやにしき
嶺は妻戀ふ牡鹿の音《ね》。

冬はあしたのあけのいろ
色無き空に色ありて
雪の梢に梅薫り、
梅の梢に雲かゝる。

嗚呼いつくしき天地の
たくみをいかにたゝへまし
同じ一日《ひとひ》の空合も
移るいくその眺めぞや。

天《そら》のはてより地のはてに
光と暗を布き替て
こゝに十二の晝の時
かれに十二の夜の時。

薄紫によこぐもの
たなびくひまを眺むれば
いろなる露を身にあびて
笑みつ生るゝ「あした」あり。

紅《くれなゐ》さむるかげろふの
光のおちを見渡せば
霞の袂ふりあげて
鳥呼び返す「夕」あり。

時雨の後は虹にほひ
虹の後には月にほひ
月はた遠く落行けば
あなたに明けの星あかし。

嗚呼おほいなる天地の
たくみをいかにたゝふべき
しづく集り塵つもり
こるもいくその形象《かたち》ぞや。

いゆき憚るしら雲を
麓なかばにとめおきて
落る日を呑み月を呑む
高きは山の姿かな。

春の霞も秋風も
共通路の沖遠み
潮逆捲き波躍る
廣きは海のおもてかな。

黒烟《くろけむ》高くなびかせて
麓の里の日を奪ひ
紅蓮《ぐれん》焔の波あげて
星なき暗の空をやく
火山の姿君見ずや。

千年《ちとせ》つみこし白雪を
凍ほれるまゝにさかおとし
八百重の嶺を打越して
海原遠くはこびゆく
氷河の流君見ずや。

嗚呼かぐはしき天地の
たくみをいかにたゝへまし
ひとつの氣《いろ》をもとゝして
染むるいくその匂ぞや。

砂漠《さばく》の月にほゆる獅子
秋野《あきの》の露にむせぶ蝶
かのたてがみもこのはねも
ひとついろとは誰か知る。

竹の林にはしる虎
汀の蘆に眠る田鶴《たづ》
この毛ごろももかの皮も
同じたくみと誰か知る。

星地に落ちてそのあした
谷間のゆりの咲く見れば
露影消てそのゆふべ
岑上《おのへ》の雲の湧く見れば――

おのが姿にあこがれて
花[#「花」に「(一)」の注記]となりしもあるものを
清き乙女[#「乙女」に「(二)」の注記]のむくろより
などか菫の咲かざらむ。

[#ここから改行天付き、折り返して6字下げ]
(註)(一)Narsissus. Ovid : Metamorphoses. B. III.
   (二)Ophelia――Shakespear : Hamlet, Act V. Sc. I.
[#ここで字下げ終わり]

  靜夜吟

夢皆深し萬象の
眠も夜も半にて
神秘の幕は
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